2017年4月27日木曜日

末の松山


契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは  藤原元輔
いつも約束してたよね。君もわたしも涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越えるようなことはしないよと。

この歌が詠んでいるのは、どんな状況でしょう。「末の松山を波が越えるようなこと」とは、一体なんでしょう。それを明らかにするキーワードが「末の松山」です。和歌世界の連想ゲームのようなものです。

 わが国最初の勅撰和歌集である古今集には、東歌(あづまうた)というくくりで、京都より東にある国々で古くから歌われていた歌で、かつ都の貴族たちが好んで口にしていた歌が、十三首ほど採られています。その中に次のような一首があります。

君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山波もこえなむ(古今集・みちのくうた)
あなたがいるのに、あなたを捨ててほかの誰かを好きになることが、もしもあるなら、末の松山をきっと波が越えるでしょう。

あの高台に生えている「末の松山」を波が越えることが絶対にないように、わたしがあなた以外の人を好きになることなど絶対にないよと、きっぱりと言い切っています。 たとえを現代風に言い換えると、東京タワーが全部水に漬かることが絶対にないように、あなた以外の人を好きになることなど絶対にないよ、という感じでしょうか。
 和歌世界の恋歌部門でいう「末の松山を波が越えるようなこと」とは、恋愛関係にあった人が心変わりすることなのです。

 そして、百人一首の元輔の歌、

契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

残念なことに、相手は心変わりしちゃったようですね。いつまでも一緒だよと、感極まって涙を流しながら約束したというのに。「しぼりつつ」の「つつ」は反復を意味する助詞です。泣いて、泣いて、「絶対、心変わりしません」「絶対、心変わりしません」と何度も繰り返していたのに。あぁ。

   さて、筆者が大学院生のころ、仙台で和歌文学会の全国大会があり、その関連行事で、みちのくの歌枕をめぐるツアーに参加しました。「末の松山」にも行きましたが、まわりは住宅地で、説明板がなければわからないようなところに、何代目かの「末の松」が生えていました。それから長い月日が経ち、松も生長し周囲も整備されました。2011年3月東日本大震災で東北に大変な被害が出ましたが、地震からしばらくたったころ、新聞などに「末の松山」の記事がいくつか出ました。東日本大震災の時も、近所の人たちは言い伝えを信じて「末の松山」に避難し、津波は「末の松山」には到達しなかったということです。
   人の心は変わるけれども、自然は変わらない、文学の永遠のテーマです。


2017年4月26日水曜日

来ぬ人をまつほの浦の


来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ    権中納言定家

 百人一首を編纂した藤原定家は、八十歳まで生きました。当時としては大変な長生きです。二十代前半に平家が壇の浦で滅亡。六十代のころ承久の乱がおこり、後鳥羽院(九十九番)が隠岐の島、順徳院(百番)が佐渡島に流されています。定家の日記、明月記にはこれらの乱にふれた有名なことばがあります。

世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ
いま世間では、戦乱のうわさでもちきりだが、それについてはここには書かない。朝廷の旗の下におこなわれる戦いは、私の関知するところではない。

でも、和歌に関しては、たとえ相手が後鳥羽院であっても、自説を主張して譲らない、そんな人だったようです。

 また、定家は父の俊成(八十三番)とともに、古今集を初めとする勅撰集、代々の歌人の家集(個人の歌集)、源氏物語、土佐日記などの書写を、家の者たちを監督して、精力的にすすめました。このころに書写された作品の多くは、俊成・定家の子孫の冷泉家の文庫に今も残っていて、不定期ですが、展覧会などに出品されて、実物を見ることができます。高校の古典の時間に、「定家さんたちが書写してくれたおかげで、現在まで残った、古文の作品がたくさんあるのよ」と、だから感謝しなくちゃという気持ちで話すのですが、多くの生徒が、ちえっ、いらんことをしてくれた、という表情になるのが、ウウウ…とても悲しいの。

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
きっと来ないと思いながら、それでもあなたを待つ、まつほの浦で、夕方の風が止まるころに海藻を焼くのですが、私自身も、じりじりと焦げていく海藻のように、あなたの訪れを待ち焦がれてしまうのです

 この歌は建保四年〔1216年〕に催された内裏百番歌合に出詠されました。そのころの歌人にとって、「まつほの浦」は聞きなれない地名だったようです。それもそのはずで、定家は、万葉集の長歌への返歌(返事の歌)として、「来ぬ人を」の歌を詠んだのです。当時、万葉集の特に長歌は、今ほど簡単に読むことができませんでした。

(神亀)三年〔726年〕丙寅秋九月十五日、播磨国印南野に行幸した時、笠金村が作った歌一首
なきすみの ふなせゆみゆる あはぢしま まつほのうらに 
あさなぎに たまもかりつつ ゆふなぎに もしほやきつつ 
あまをとめ ありとはきけど みにゆかむ よしのなければ 
ますらをの こころはなしに たわやめの おもひたわみて 
たもとほり あれはぞこふる ふなかぢをなみ (万葉集)
名寸隅の 船泊から見える 淡路島の 松帆の浦に
朝凪には いつも玉藻を刈り 夕凪には いつも藻塩を焼く
海人乙女が いると聞いているのだけれど 逢いに行く 手段がないので
強く勇ましい 心はなくて なよなよと 心がくじけて
行ったり来たりして 私は恋しく思うのだ 舟も楫も無いので

名寸隅(なきすみ)は現在の兵庫県明石市の地名で、松帆の浦はその対岸の淡路島北端の地名です。逢いに行きたいけど行けない、だって舟がないんだもの、となんとも煮え切らない男の歌ですが、定家は、万葉集の長歌に詠まれている、松帆の浦の海人乙女のかわりに、500年の時空をこえて、それでもあなたを恋い焦がれて待っていますと、返歌を送ったのです。タイムマシンがなくても、過去と交信できるのですね。素敵。

2017年4月22日土曜日

小野小町の恋の歌

 

   小野小町が、年をとって容貌も衰え、最期は陸奥国の野で髑髏になったという説話を紹介しましたが(小町髑髏説話、拒絶する小野小町)、「だめ、そんなの小町じゃない」という小町フアンのために、小野小町の素敵な和歌を紹介したいと思います。

  公認小町フアン第一号は、紀貫之(三十五番)かもしれませんね。貫之は、わが国最初の勅撰和歌集である、古今集の仮名序にこのように記しています。

 小野小町の歌は、いにしえの衣通姫(そとおりひめ)の流れをくんでいます。思いがあふれていますが、強く主張するわけではありません。いうなれば、美しく高貴な女性が、思い悩む心の内を言葉にしているようなものです。強さがないのは女の歌だからでしょう。(古今集仮名序)

 衣通姫は古代の美女の代名詞で、美しさが衣を通って輝いていたといわれています。

 勅撰集の恋の部は、おおむね恋の進行にしたがって和歌を配列しています。恋の初めのときめきを歌った歌から、なんとかして思いを伝えたいと願う歌、次の段階の、思いがかなってうれしいという歌はほとんどなくて、逢えなくなったことを嘆いている歌がバターン1,2、3…と続き、終わってしまった恋の歌という順序です。古今集の恋の部は、恋一から恋五までの五巻ですが、恋二の巻頭に小野小町の歌が三首ならんでいます。

思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
あの人のことを考えながら寝たので、あの人が夢にでてきたのかしら。夢とわかっていれば目を覚まさなかったのになあ

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
うたた寝をしていて恋しいあの人を見てからというもの、夢というものに期待してしまいます

いとせめてこひしき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる
とてもたえられないほど恋しい時は、夢で逢うためのおまじない、夜の衣を裏返して着るのです

 全く関係のない話ですが、私がつわりで何も食べられなかったとき、夢にグレープフルーツが出てきたんです。喜んで食べようとしたところで起こされてしまい、なんで起こすのよと、目が覚めた時に本気で文句を言ったことを思い出しました。一番目の歌(思いつつ)もそんな感じかな。え、同意しかねる?

 気を取り直しまして、古典和歌には「夢の通い路」という美しい言葉があります。ふたりの心が通い合っていれば、相手が夢に現れると信じられていたので、二番目の歌(うたた寝に)は、彼も私のことを思ってくれているのかしら、期待していいのかしらと、どきどきしています。貫之が仮名序に書いているように、積極的にアプローチする歌ではありませんが、こんなラブレターがとどいたら、夢とはいわず、すぐに直接逢いに行ってしまうのではないかな。

 古今集からもう一首、

  文屋康秀(ぶんやのやすひで)が、三河の掾(ぞう)
    になって、「私の任国を見にいきませんか」といって
    きた返事に詠んだ  
わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ(雑下)
わびしくて、わが身を憂きものと感じていますので、憂き草ならぬ浮草のように根無し草となって、誘う水があれば、どこにでも流れて行こうと思います

三河国の国司になった文屋康秀(二十二番)が、どうですあなたも一緒にいきませんかと軽く誘いをかけてきたので、そうね、行ってもいいかなと軽く返した歌です。小町が詠んだ歌が過剰に〈深刻ぶっている〉ので、これは冗談で、軽い会話を楽しんでいるんだなとわかります。ここで小町のお返事を真に受けてしまうと、百夜通いすることになるかも。文学畑の方たちは、めんどうくさいところが多々ございますね。




2017年4月19日水曜日

もろともにあはれと思へ






もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし   前大僧正行尊


 行尊は三条院(六十八番)のひ孫で、十二歳のときに出家して園城寺に入りました。そして熊野・大峯・高野などの山中で厳しい修行をします。五十歳を超えて、鳥羽天皇の護持僧となり、あちこちの寺の長官を兼務し、天治元年(1125)、七十歳の時に、僧の最高位である、大僧正に任ぜられました御産の時や病気になった時は、修行をつんだありがたい僧の加持祈祷が頼りでしたから、都の貴族たちの信頼も厚かったようです。

 このように書くと、行尊はすごく偉い人で近寄りがたい存在に感じてしまいますが、本当のところはどうだったのでしょう。

 大僧正に任ぜられた天治元年ごろ、五番目の勅撰和歌集である金葉集(きんようしゅう)に入れる和歌が集められていました。撰者は源俊頼(七十四番)です。勅撰集を撰集するときには、歌人たちに声をかけて、それぞれの家にある歌集を集めます。ここは私の想像ですが、行尊も、「若い頃に山で修行をしていたときに詠んだ歌をまとめたものがあるんですが、つかえそうな歌はありますかな」などと言って、修行時代の和歌を撰者に見せたのではないでしょうか。金葉集には十首の歌が採られました。時代は下がりますが、あの鴨長明が、勅撰集に自分の歌が一首入った、めちゃくちゃうれしいと書いているぐらいですから、二桁入るのはとてもすごいことです。金葉集の後にできた勅撰集にも、行尊の歌はたくさん入っています。

  大峯の神仙というところに、長いあいだおりました
  ところ、一緒に修行していた人たちが、それぞれに
  事情があって、みんな去ってしまいましたので、
    心細くて詠みました

見し人はひとりわが身にそはねどもおくれぬ物はなみだなりけり(金葉集・雑上)

知り合いは誰一人として、私と一緒にいてはくれないけれど、遅れることなく私についてくるのは、わたしの涙だったよ 

十二歳で寺に入って、ほどなく大峯の霊場で修行をはじめたので、まだ二十歳前ではないでしょうか。不安な気持ちが、痛いほど伝わってきます。
 また、大峯の霊場に入る直前に、自分をかわいがって育ててくれた乳母に送った和歌も、新古今集に入っています。

  熊野へまいりまして、大峯に入ることにした時に、
  長いわたしを育ててくれた乳母のもとに
      送りました

あはれとてはぐくみたてしいにしへは世をそむけとも思はざりけむ新古今・雑下)
かわいい、かわいいといって育ててくれていた昔は、わたしがこのように出家して遠くに行ってしまうとは、あなたは思っていなかったよね。

乳母を気づかう優しさが、なんともせつないではありませんか。私はすっかり若いころの行尊くんのフアンになってしまいました。「あはれ」という言葉は、現代語では「かわいそうに」「みじめだなあ」などとマイナスの意味に使うケースがほとんどですが、古典では、ドキドキすること、胸にジーンとくること、胸がぎゅっと締め付けられるようなこと、とにかく、好ましいことでも好ましくないことでも、心が大きく動かされるときに使います。この言葉は、どのようなことに心が動いたのかを、きちんと読みとることができれば、場面がうまく理解できます。



 さて、ここで行尊の百人一首の歌です。行尊の家集(個人の歌集)を見ると、この和歌がどのような状況で詠まれたのかが、よくわかります。

  おもひがけない山中にまだつぼみの花もまじって
  咲いていましたが、風で散っていたので

山桜いつをさかりとなくしてあらしに身をもまかせつるかな
山桜は、これから咲きそうなつぼみもまじっているのに、強い風に身をまかせているのだな

  風に吹かれて枝が折れて、それでも美しく咲いて
    いましたので

折りせてのちさへにほふ山桜 はれしれらん人に見せばや
風で枝が折れて、地面についてしまっても美しく咲いている山桜、すごいなぁ、私と同じように感動してくれる人に、この光景を見せたいなあ

もろともにはれと思へ  くら  よりほかにしる人もなし(行尊大僧正集)

 最初の歌(山桜)、行尊は山の中で思いがけず山桜を見つけました。まだ満開にはほど遠い、5分咲きぐらいでしょうか、まだつぼみのままの花もあるのに、強い風が吹いて散っていました。つぼみの花はまだ若い自分、強風は厳しい修行、目の前の桜がまるで自分自身であるかのように感じたのかもしれません。そこで二番目の歌(折りふせて)、桜は強風で枝が折れても、美しく咲いています。「あはれしれらん人」とは、感動を共有できる人です。おそらく行尊の脳裏には、特定の誰かの顔がうかんでいるはずですが、今ここにいるのは自分ひとり。そこで、山桜に呼びかけます。

もろともにはれと思へ くらよりほかにしる人もなし
お互いにお互いのことを、すごいなぁ、感心だなぁと思おうよ。山桜よ。私のことをわかってくれるのは花のおまえしかしないのだから。

桜にむかって、「僕は君のこと、すごいなぁと思うよ。だから君には、山の中でひとりで修行している僕のこと、すごいなぁと思ってほしいな。僕たち、友達だよね」  メルヘンだなあ。


2017年4月17日月曜日

拒絶する小野小町

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花の色はうつりにけりな いたづらにわが身世にふるながめせしまに    小野小町

ふたたび小野小町の話題です。

小野小町を主人公にした能はいくつかありますが、その中のひとつ「通小町」では、小野小町とともに深草の少将が登場し、百夜通い(ももよがよい)の様子を再現します。

the 能 com
http://www.the-noh.com/jp/plays/photostory/ps_023.html

百夜通いとは、「私とお付き合いがしたいのなら、百夜続けて通っていらっしゃい。おできになるかしら」という美女に、「承知した」と通い続けたけれど、結局お付き合いできなかったというお話です。
 美女に求愛を拒絶されたことのある人たちが、次に紹介するような既成の話をすり替えて、美女代表の小野小町の説話にしちゃったのではないかな。いやぁね。
                                                                     
 一条天皇の御時、天皇の御前で殿上人たちが「歌論義」をしていました。藤原公任(五十五番)が書きとどめた記録の断片が、後の時代の歌学書に伝わっています。「歌論義」とは、和歌の未解決問題をとりあげ、人々がそれぞれの家に伝わる説を披露しあうものです。一条天皇の御時だけでなくその後の時代になっても、また宮中だけではなく個人の邸などにも集まって、熱心に意見交換をしていたようです。文学の分野では、正解はひとつではありません。だから論議の場にこまめに参加したり、昔の記録を広く集めるなどして、たくさんの説を知っている人が尊敬されます。他の人の説を上から目線でばっさりと切り捨ててばかりいると、敬遠されます。それは今も同じですね。
  平安時代後期の歌人、藤原清輔(八十四番)は、歌学界の蘊蓄(うんちく)王です。袋草紙(ふくろぞうし)、和歌初学抄、奥義抄(おうぎしょう)など、たくさんの歌学書をのこしていますが、奥義抄に、このような問答が記されています。

暁のしぢのはしがきももよかき君が来ぬ夜はわれぞかずかく

問云、この「しぢのはしがき」とは、どのようなことですか。
答云、例の歌論義にはこのようにあります。
 むかし、なかなかなびいてくれない女に求婚する男がいた。真剣に交際したいと思いを伝えたところ、女は試してみようと思って、男がいつも通ってきては語りかけてくる場所に「しぢ」(牛車をとめるときに使う台)を置いて、「もし、この上で百夜続けて寝たら、あなたの求婚を受けいれることにするわ」と言った。男は雨の降る時も風の吹く時も、日が暮れるとやってきては「しぢ」の上で寝ていた。「しぢ」の端に寝た夜の数をかいていき、見ると九十九夜になった。そこで、「明日からは、何があっても拒絶できませんからね」などと言って帰った。ところが男の親が突然死んでしまったので、その夜は行くことができなくなってしまった。そのときに、女からおくられてきた歌である。
 これはある秘蔵の書物の中にある話だということですが、実際に見たことはありません。(奥義抄)

この「歌論義」のきっかけは、ある人が持っていた古今集の本文が、みんながよく知っていた本文とは違っていたことです。当時みんながよく知っていた本文は、現在もそのまま使われています

暁のしぎのはねがきももはがき君がこぬ夜は我ぞかずかく(恋五・七六一)

 明け方になると聞こえてくる、飛び立つ鴫の羽がきの音、百羽の鴫の羽がきの音。あなたが来てくださらなかった夜は、鴫の羽〈がき〉ではないけれど、あなたが来ない夜の数を私が〈かき〉ます。

 この女性は、バサバサと飛び立つ鴫の羽音を聞きながら、今日もこない、昨日もこなかったと手帳にメモしていたのですね。とにかく、「しぎのはねがき」が「しぢのはしがき」となっている本があって、それが1本や2本ではなかったのです。そこで、これはどういうことやと意見交換が行われました。

 昔はコピー機などはないので、書物はすべて手で写していました。とうぜん書き間違えることがあります※。でも、書き間違いですませないで、いろいろなお話を新しく創作してしまうのが、古文の世界のおもしろさ。それが、いつのまにか有名人の小町の説話に変わっているというのも、古文の世界のおもしろさです。理屈じゃないんです。

※書写する人が、こっちのほうがいいんじゃないと本文を書き替えたり、付け足したりすることもありますが、ややこしくなるので、それはまた別の機会に。


                                             

2017年4月15日土曜日

いにしへの 奈良の都の八重桜



いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな  伊勢大輔

 いにしへの奈良の都は平城京、八重桜は通常の桜よりも花びらの数が多い桜のことです。伊勢大輔集によると、奈良から献上されためずらしい桜を受け取る役目を、大先輩の紫式部から急に任されて詠みました。

 上東門院が中宮だったころ、内裏で帝のおそば近くにいらっしゃたときに、奈良にいる僧都から八重桜が献上された。「今年、受け取る人は、最近出仕してきた方にしましょう」といって、紫式部が役目をゆずったところ、入道殿(道長)がそれをお聞きになって、「なにもせずに受け取るわけにはいかないね」とおっしゃったので   

    いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな         (伊勢大輔集)
               
お届け物でーす。こちらにサインをお願いします、ではすまないところが、さすがに平安時代ですね。
 伊勢大輔は、重代(じゅうだい)といわれる、代々つづく和歌の家、大中臣家の出身です。勅撰和歌集に入集する優れた歌人を輩出していました。たとえると、鳴り物入りで迎えた期待の大型新人の初登板で、しかも天覧試合。でも、伊勢大輔は本番に強かった。見事な変化球を美しいフォームで投げました。

 どこが変化球かといいますと、この歌にいろいろな趣向が隠されているところです。
 まず、「八」重桜が「九」重に咲いているよと、数字で遊んでいるところ。「九重」とは宮中のことです。さらに、「けふ」が「今日」と「京」の掛詞になっていて、「いにしへ」と「今日」、「奈良」と「京」がそれぞれ対比されています。
 下手な歌人が凝った歌をつくると、下手なダジャレのようで、心地よく心に入ってこないのですが、伊勢大輔の歌には技巧を感じさせない美しさがあります。加えて、和歌を考えて発表するまでのスピード。藤原清輔(八十四番)が著した、袋草紙という歌学書には、この歌を披露したとき、その場にいたすべての人が感動し、感動で宮中が揺れた(「万人感嘆し、宮中鼓動す」)とあります。デビュー戦は大成功でした。

 
 言わずもがなのことですが、伊勢大輔は〈イセ・ダイスケ〉ではありません。これではアラキ・ダイスケ、タカハシ・ダイスケ、イセ・ダイスケ。なにやらスポーツマンっぽい名前になってしまいます。たとえが野球になってしまったのはそのせい?

 平安時代の女性は、邸の中だけで生活するのであれば、大君・中の君・三の君・四の君と年齢順に呼べば、それで事足ります。でも、宮中でお勤めするとなれば、大君・中の君だらけで、誰がだれやらとなってしまいます。そこで女房名を決めるのですが、父親や夫の赴任地をそのまま女房名にするケース、たとえば、夫が相模守だったので相模(六十五番)、夫が紀伊守なので紀伊(七十二番)、父親や夫の官職名をつかうケース、たとえば、父の清原元輔(四十二番)が少納言だったので清少納言(六十二番)、などがあります。清原さんちの少納言さんの娘という意味ですね。伊勢大輔も、父親の輔親か夫の高階成順が大輔の位に就いていたことがあったのでしょう。大輔は省の次官(すけ)の位で、治部大輔・民部大輔・兵部大輔・刑部大輔・宮内大輔などがありますが、その中のどれなのかはわかっていません。大中臣家は伊勢神宮の祭主を代々つとめていました。
 伊勢大輔は、いせのたいふと読みます。

(追記)羽生結弦くんの、引退した浅田真央さんへのコメント「難しいステップ、スピン、ジャンプを入れたとしても、そこに難しさを感じさせないのが浅田さんのすばらしいところ(毎日新聞2017/04/17スポーツ面)」は、すぐれた和歌にも通じます。技巧をこらしつつ、全体は流れるように。タカハシ・ダイスケからの連想でした。



2017年4月13日木曜日

小町髑髏説話



岡山県総社市にある備中国分寺の山桜 2017/04/8

花の色はうつりにけりな いたづらにわが身世にふるながめせしまに    小野小町

 百人一首九番の歌です。教科書にも入っていて、とても有名です。小野小町は、すてきな和歌をほかにもたくさん詠んでいるので、小町の和歌のお話は、また別の機会にしようと思いますが、ひとつだけ。第二句「うつりにけりな」の「うつる」、それから「うつろふ」という言葉には注意が必要です。もちろん言葉ですから少しは例外もありますが、ほとんどの場合、「うつる」「うつろふ」は、好ましい状態から好ましくない状態に向かって変化します。たとえば、人の心が「うつろふ」、これはラブラブな状態から愛情が冷めた状態に変化することです。この言葉、ちっともうれしくないわ。
 
 小野小町さんは、「春の長雨のせいで、あんなに美しかった桜の花が色あせてしまったわ。あらいけない、私の美貌も劣化したみたい」などと、自分を軽く卑下する歌を詠まなければよかったのです。この歌が有名になったせいで、小野小町の老後は美貌が見る影もなくなり、生活が困窮したという説話がいくつも生まれてしまいました。和歌そのものは、技巧を技巧と感じさせない見事な詠みっぷりで、とてもすばらしいものです。でも、今も昔も、マイナス面ばかりを強調しすぎる傾向がありますね。

 今回取り上げるのは、小町髑髏説話です。

 突然ですが、鴨長明には文学史に残る著書が3つあります。一つめは方丈記、地震ルポ、平家の福原落ルポはさすがの迫力です。二つめは発心集、人々が仏道に入るきっかけとなったお話を主に集めた説話集です。そして三つめが無名抄、名前がなくてはややこしいので長明無名抄と呼ばれることもある歌学書です。有名な歌人のエピソードや、和歌に人生を捧げすぎておかしなことになっている歌人のエピソードが、じわじわとおもしろい本です。
  無名抄にある、小野小町のエピソードを紹介しましょう。

 伊勢物語六段「芥川」は、在原業平とおぼしき男が、帝のお后にするために大切に育てられていた女性を奪って、二人で逃避行するとても美しいお話ですが、つけたしの後日談は、夢見る乙女としては(え、誰が?)、美しいお話が台無しじゃないかっと全力で怒りたくなる、ほんとうに余計なつけたしです。このラブロマンスは在原業平の回で、くわしく紹介しようと思っていますが、無名抄では、伊勢物語よりもさらに台無しな後日談から、小野小町の話題につないでいます。

~業平は、将来のお后候補を盗んだかどで、彼女の兄二人からお仕置きとして髻(もとどり)を切られてしまいました。髻とは頭の上で髪を束ねた〈ちょんまげ〉の部分ですが、髻を切られてしまっては、宮中に出仕することもできません。~

業平朝臣は「髪を生やそう」と思って、邸に引き籠もっていたが、この際だ、「あちらこちらの歌枕を見に行こう」と、和歌の勉強を口実にして、東国の方にでかけた。陸奥国にたどり着いて、かそしまというところに宿をとった夜のこと、野原の中で和歌の上の句を詠んでいる声がする。それは、

秋風の吹くにつけてもあなめあなめ

と聞こえた。不思議に思って、声をたどりながら、探したところ、人はだれもいない。ただ、死人の頭がひとつあった。翌朝、もういちど見にいくと、その髑髏(どくろ)の目の穴から薄が一本生えていた。その薄が風になびいている音が、例の歌を詠んでいるように聞こえた。不思議に思って、このあたりに住んでいる人にそれを尋ねた。ある人が語るには、「小野小町が、京からこの国に下ってきて、この場所で命を終えたんですよ。で、その頭がこれです」。
  業平は、小町が哀れで悲しく思ったので、涙を拭いながら下の句をつけた。


小野とはいはじ薄生ひけり

その野の名が玉造だと土地の男は言ったということです。
 玉造小町と小野小町は同一人物か、別人かと、人々が不審に思って言い争っていたときに、その場にいた人が語った話です。(無名抄)

  「玉造小町」とは、『玉造小町子壮衰書』という本に登場する人物です。『玉造小町子壮衰書』は平安時代の後期には書かれていただろうと言われています。本の中で、老いさらばえた老女が、若い頃は美貌を誇って贅沢に暮らしていたが、親兄弟も死んでしまって、今では惨めな暮らしをしていると語ります。
 まさか、あの小野小町が、そんな惨めな老後をむかえる訳がない、玉造小町と小野小町は別人だよと考える人もいます。その一方で、いやいやこれはきっと小野小町のことにちがいないと考える人もいたようです。
 無名抄を読むと、当時の、つまり平安時代の終わりから鎌倉時代の初めごろの人たちが、けっこう真剣に、小野小町について語り合っていたことがわかります。長明は、小野小町の老後は悲惨だった説に一票入れたいのかな。どう思われますか。

小野小町の話は、まだまだあります。

2017/04/13

ひさかたの光のどけき春の日に

これは角川ソフィア文庫の中の1冊、「カラー版百人一首」の表紙です。和歌1首が1ページにまとめられ、現代語訳、ミニ知識とともに、光琳かるたの読み札と取り札が大きく印刷されています。定価は480円+税。お値段もお手頃。パラパラめくるには紙の本のほうが便利ですが、電子書籍にもなっていて、かるたの色は電子書籍のほうがきれいです。
 光琳かるたは読み札に作者の絵、取り札に和歌の内容につながる絵が描かれていて、絵をながめているだけでも楽しめます。
 
 このブログでは、百人一首の100首の歌を入口にして、和歌のこと、作者たちのこと、平安時代のあれこれを、書いていこうと思います。

「学生時代の古文の呪いを、わらわが解いてしんぜよう」などと大口をたたくことはできませんが、ちょっとおもしろいじゃないかと思っていただければ幸いなり。

 

 読み札に描かれた作者の表情はじつに個性豊かですが、なかなかいい味を出しているのが、三十三番の紀友則です。今風にいうと癒やし系?和歌はもっと癒やし系です。

 ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ  紀友則

 光琳かるたの取り札には、お日さまを意味する赤い丸と桜の木が描かれています。日ざしが明るく、ふんわりと暖かい春の日、友則さんは桜の木の下でウトウトしている。そんなのんびりとした春の日なのに、気がつくとせっかく咲いた桜の花が散っています。「しづ心」は静かな心。「しづ心なく」ですから、〈静〉の反対の情景を想像してみてください。桜はどのように散ってるのでしょうか。〈静〉の反対は〈動〉です。

 友則の歌の解釈の決め手は文末の「らむ」です。現在推量の助動詞といわれていますが、もうすこしくわしく説明すると、現在おこなわれていること・現在おこっていることについて、目に見えないことを想像する助動詞です。たとえば、目の前で泣いている人をみながら、「この人はなぜ泣いているのだろう」、「お腹がすきすぎて泣いているのだろうか」と、目には見えない心の中を想像する用法、「あわててでかけた彼は、いまごろ駅に着いただろうか」と目には見えない離れた場所で現在おこなわれていることを想像する用法などがあります。友則の歌は、目の前でどんどん散っていく桜の花を見ながら、どうしてこんなにのどかな日に散るのだろうかと、桜の心の中を想像しています。

 光琳かるたの読み札に描かれた友則さんは、
「こんなに気持ちのいい春なんだからさ~、そんなにあわてて散らなくてもいいんじゃない~、もっとのんびりしょうよ~」
と桜に呼びかけているように思えます。

 2017/04/12

儀同三司母と伊周

わすれじの行く末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな    「忘れないよ」というあなたの言葉が、この先変わることがないということは難しいでしょうから、「忘れないよ」とあなたがうれしい言葉をかけてくださった今日、このまま死んでしまいとうございます。  作者は道隆の北...