2017年5月10日水曜日

すきもの 能因


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり      能因法師

 能因は「すきもの」といわれています。え、すきもの?なにやらモヤモヤと紫やピンクの雲がわいてくる気配が……。ちがいます、ちがいます、いまあなたが考えたような意味ではありません(考えていない?そりゃ失礼)能因の場合は、人ではなく、和歌にいちずに熱中する「すきもの」です。自分が熱中するだけでなく、大江公資の孫、公仲(伝不詳)にも「すき給へ。すきぬれば歌は詠むぞ」(袋草紙)とアドバイスしていました。効果はなかったみたいだけど。公資は相模(六十五番)の夫です。

 さて、能因には、百人一首の「嵐吹く」の歌と同じぐらい有名な歌があります。

  〔万寿〕二年(1025)の春、陸奥国にちょっと
  行ってこようと思い、白河の関で宿をとって、
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因集)

詞書は現代語訳しましたが、原文には「みちのくににあからさまにくだるとて」とあります。古語の「あからさま」の意味は、一時的に、ついちょっと。現代語とは意味が違います。ついちょっと、といっても、都を春霞がたつころに出立し、白河の関に秋風が吹くころ到着していますから、旧暦の一月初旬ごろから七月初旬まで時間が経過しています。都から白河の関まで、片道で半年ぐらい、すべて徒歩で行ったのでしょうか。

白河の関は東山道にあり、陸奥国の入口です。松尾芭蕉の『奥の細道』の旅は「春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ」と、白河の関を越えたいと思い付いてしまって、そわそわしたことから始まります。芭蕉は白河の関で能因の歌を思い浮かべています。

 最初に引用した公資の孫へのアドバイスを含め、清輔(八十四番)は能因のエピソードを袋草紙にたくさん書きとめているのですが、白河の関を詠んだ歌については、このように記しています。

 能因は、本当は奥州に下向していない。この歌を詠むため、ひそかに自宅に引き籠もって、奥州に下向したという噂を流したという。記録には二度下向したとある。そのうち一度は本当か。そのとき八十島記を書いている。(袋草紙)

能因は陸奥国(奥州)には行ってないという説です。さらに袋草紙の約100年後にまとめられた説話集、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、次のようにあります。

 能因は、ほかに肩を並べる人がいないほどの、すきものだったので、「都をば霞とともに…」の歌を詠んだとき、(正直に)都で詠んだといって、この歌を発表してもつまらないと思った。それで、人に知られないように長い間家に引き籠もって、顔の色も黒く日焼けさせてから、陸奥国のほうに修行に行ったときに詠みましたといって、披露しました。(古今著聞集)

二つの本を比べると、今風の表現をすれば、話をどんどん「盛って」いった過程がわかりますね。実際に白河の関を訪れて、現地で詠んだというほうが、感動が増すだろうと考えて、演出したわけです。色白のままでは外を歩いていたと言えないので、日焼けまでして。
 
 能因が白河の関を実際に訪れたことがあるのは事実なので、袋草紙や古今著聞集などの説話のほうがフィクションではないかと一般には考えられています。一方で、このような説話が創られたのは、「すきもの」能因のイメージ戦略の成果とみることもできます。少なくとも能因なら喜びそう。

 最後にもうひとつ、私の好きなエピソードを袋草紙から紹介します。

 帯刀の長(たちはきのおさ)加久矢の節信(ときのぶ)は、歌道に深く心を寄せた者である。初めて能因と会い、互いに意気投合した。能因が、「今日お越しくださった引出物として、見ていただきたいものがあります」と言って、懐(ふところ)から錦の小袋を取り出す。その中に鉋屑(かんなくず)が一枚あった。それを見せていうには、「これはわたしが大切にしている宝物です。長柄の橋(ながらのはし)を造ったときに出た鉋屑です」すると節信は飛び上がって喜び、節信もまた懐から紙に包んだものを取り出す。それを開いてみると、干からびた蛙であった。「これは井手の蛙(かはず)です」お互いに、このようなすばらしいものがあったのかと感激し、それぞれの宝物をまた懐にしまい込んで、別れたという。
 今の世の人なら、きっとばかげていると言うでしょうね。(袋草紙)

鉋屑と蛙の干物に感激する二人の話です。

 長柄の橋は、伊勢(十九番)が次のように詠んでいます。

なにはなる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古今集・誹諧歌)
難波にある長柄の橋も新しく造っていると聞く。今となっては(古くなった)わが身を何にたとえればよいのやら

この歌より前に、長柄の橋は「世中にふりぬる物はつのくにの長柄の橋と我となりけり 」(古今集)と詠まれていて、古いものの代表でした。それが新しく造り替えられたので、わが身だけが古いままかと嘆いているのです。鉋屑はこの時にでたものでしょうか。
 一方、井手にすむ蛙は「かはづなく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」(古今集)のように和歌に詠まれています。
 能因と節信が、和歌に関係するレアアイテムを見せ合って、大喜びしている様子が想像できます。でも、やっぱりなにか変。節信の職である帯刀の長は、皇太子を護衛する武官の指揮官です。能因と肩をならべるほどの「すきもの」が、いたんですね。





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