もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし 前大僧正行尊
行尊は三条院(六十八番)のひ孫で、十二歳のときに出家して園城寺に入りました。そして熊野・大峯・高野などの山中で厳しい修行をします。五十歳を超えて、鳥羽天皇の護持僧となり、あちこちの寺の長官を兼務し、天治元年(1125)、七十歳の時に、僧の最高位である、大僧正に任ぜられました。御産の時や病気になった時は、修行をつんだありがたい僧の加持祈祷が頼りでしたから、都の貴族たちの信頼も厚かったようです。
このように書くと、行尊はすごく偉い人で近寄りがたい存在に感じてしまいますが、本当のところはどうだったのでしょう。
大僧正に任ぜられた天治元年ごろ、五番目の勅撰和歌集である金葉集(きんようしゅう)に入れる和歌が集められていました。撰者は源俊頼(七十四番)です。勅撰集を撰集するときには、歌人たちに声をかけて、それぞれの家にある歌集を集めます。ここは私の想像ですが、行尊も、「若い頃に山で修行をしていたときに詠んだ歌をまとめたものがあるんですが、つかえそうな歌はありますかな」などと言って、修行時代の和歌を撰者に見せたのではないでしょうか。金葉集には十首の歌が採られました。時代は下がりますが、あの鴨長明が、勅撰集に自分の歌が一首入った、めちゃくちゃうれしいと書いているぐらいですから、二桁入るのはとてもすごいことです。金葉集の後にできた勅撰集にも、行尊の歌はたくさん入っています。
大峯の神仙というところに、長いあいだおりました
ところ、一緒に修行していた人たちが、それぞれに
事情があって、みんな去ってしまいましたので、
心細くて詠みました
見し人はひとりわが身にそはねどもおくれぬ物はなみだなりけり(金葉集・雑上)
知り合いは誰一人として、私と一緒にいてはくれないけれど、遅れることなく私についてくるのは、わたしの涙だったよ
十二歳で寺に入って、ほどなく大峯の霊場で修行をはじめたので、まだ二十歳前ではないでしょうか。不安な気持ちが、痛いほど伝わってきます。
また、大峯の霊場に入る直前に、自分をかわいがって育ててくれた乳母に送った和歌も、新古今集に入っています。
熊野へまいりまして、大峯に入ることにした時に、
長い間わたしを育ててくれた乳母のもとに
送りました
あはれとてはぐくみたてしいにしへは世をそむけとも思はざりけむ(新古今・雑下)
かわいい、かわいいといって育ててくれていた昔は、わたしがこのように出家して遠くに行ってしまうとは、あなたは思っていなかったよね。
乳母を気づかう優しさが、なんともせつないではありませんか。私はすっかり若いころの行尊くんのフアンになってしまいました。「あはれ」という言葉は、現代語では「かわいそうに」「みじめだなあ」などとマイナスの意味に使うケースがほとんどですが、古典では、ドキドキすること、胸にジーンとくること、胸がぎゅっと締め付けられるようなこと、とにかく、好ましいことでも好ましくないことでも、心が大きく動かされるときに使います。この言葉は、どのようなことに心が動いたのかを、きちんと読みとることができれば、場面がうまく理解できます。
さて、ここで行尊の百人一首の歌です。行尊の家集(個人の歌集)を見ると、この和歌がどのような状況で詠まれたのかが、よくわかります。
おもひがけない山中に、まだつぼみの花もまじって
咲いていましたが、風で散っていたので
山桜いつをさかりとなくしてもあらしに身をもまかせつるかな
山桜は、これから咲きそうなつぼみもまじっているのに、強い風に身をまかせているのだな
風に吹かれて枝が折れて、それでも美しく咲いて
いましたので
いましたので
折りふせてのちさへにほふ山桜 あはれしれらん人に見せばや
風で枝が折れて、地面についてしまっても美しく咲いている山桜、すごいなぁ、私と同じように感動してくれる人に、この光景を見せたいなあ
もろともにあはれと思へ 山ざくら 花よりほかにしる人もなし(行尊大僧正集)
最初の歌(山桜)、行尊は山の中で思いがけず山桜を見つけました。まだ満開にはほど遠い、5分咲きぐらいでしょうか、まだつぼみのままの花もあるのに、強い風が吹いて散っていました。つぼみの花はまだ若い自分、強風は厳しい修行、目の前の桜がまるで自分自身であるかのように感じたのかもしれません。そこで二番目の歌(折りふせて)、桜は強風で枝が折れても、美しく咲いています。「あはれしれらん人」とは、感動を共有できる人です。おそらく行尊の脳裏には、特定の誰かの顔がうかんでいるはずですが、今ここにいるのは自分ひとり。そこで、山桜に呼びかけます。
もろともにあはれと思へ 山ざくら花よりほかにしる人もなし
お互いにお互いのことを、すごいなぁ、感心だなぁと思おうよ。山桜よ。私のことをわかってくれるのは花のおまえしかしないのだから。
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