2017年5月27日土曜日

心あてに折らばや折らむ 続、正岡子規言いたい放題


かささぎ

 今年(2017年)生誕150年をむかえる、正岡子規の「歌よみに与ふる書」の話題は続きます。

 私が師事する片桐洋一先生は、三代集(古今集・後撰集・拾遺集)時代の和歌と伊勢物語研究の第一人者です。大阪女子大学(現、大阪府立大学)に入学して最初にうけた、1年次の専門科目の授業で、古典文学の基本は古今集ですとおっしゃるので、小学館古典文学全集の古今集を、バイト代をはたいて買いました。受験参考書以外で、最初に買った古典の本が古今集です。

   子規は「再び歌よみに与ふる書」でこのように述べています。現代語訳します。

貫之は下手な歌よみであり『古今集』はくだらない集であります。その貫之や『古今集』を崇拝することは、ほんとうに気が知れないなどと申すものの、実はかく言う私も数年前までは『古今集』を崇拝する一人でしたから、今も世間の人が『古今集』を崇拝する気持ちはよくわかります。崇拝している間は、ほんとうに歌というものは優美で、『古今集』は、中でもとくにすばらしい歌を抜き出したものとばかり思っておりましたが、三年の恋も一瞬に覚めてみると、あんなに意気地の無い女に今までたぶらかされていたのかと、悔しくも腹立たしくもなってしまいます。

うわぁ。


気を取り直しまして、古今集の撰者は、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)、紀友則(きのとものり)の4人です。全員の歌が百人一首に入っていますが、「五たび歌よみに与ふる書」で子規が俎上に載せたのは、躬恒の歌です。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
当て推量に折ったら折れるだろうか。初霜が置いて地面が白くなり、まったく見分けがつかなくなった白菊の花は

同じく霜を詠んだ、大伴家持の百人一首歌はよいのだそうです。

かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
七夕の夜にかささぎが空に渡すという橋、その橋が霜がおいたように白くなっているのをみると、夜がふけたのだなぁと思う

彦星が織り姫のもとに通う時に、かささぎが羽をならべて天の川に橋をかけるという伝説を詠んでいます。以前、北海道の知床峠で天の川を見たことがありますが、真っ白でとてもきれいでした。

次に「五たび歌よみに与ふる書」から引用します。

心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
この躬恒の歌は、百人一首にあるので誰もが口ずさみますが、一文半文のねうちもない駄歌でございます。趣向が嘘なので趣きもへちまもありません。思うにそれはつまらない嘘だからつまらないのであって、上手な嘘はおもしろうございます。たとえば「鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」はおもしろうございます。躬恒の歌はささいなことをやたらに大げさに述べただけなので悪趣味ですが、家持の歌は、全くありえない事を空想で表現しているので、おもしろく感じられます。嘘を詠むのなら、全くありえない事、とてつもない嘘を詠むのがよい。さもなければ、ありのままに正直に詠むのがよろしいのです。雀が舌を切られたとか、狸が婆に化けたなどの嘘はおもしろうございます。今朝は霜が降って白菊が見えないなどと、真面目な顔をして人を欺く、わざとらしい嘘はきわめて興ざめでございます。

嘘をつくなら大きな嘘をつけと言っているところが、おもしろうございます。でも、舌を切られた雀や婆に化けた狸は、俳句には詠めても、歌にはなかなか詠めないと思うので、歌はありのままに正直に詠むのがよいという結論になるのでしょうか。

私は古典和歌の研究者なので、一応、古典和歌を弁護しますと、たとえつまらない嘘でも最初にその表現を考えついたのはその人のお手柄、決まり切った表現をなんの工夫もなくまねるのは怠け者、ということでいかがでしょうか、正岡子規先生。

2017年5月26日金曜日

月見れば千々にものこそ  正岡子規言いたい放題


 今年(2017年)は正岡子規生誕150年の年です。正岡子規と聞いて私が連想するのは「歌よみに与ふる書」。1898年(明治31)2月12日、子規が31歳の時に『日本』に掲載されました。書とは書簡のことで、世の歌よみにあてた手紙形式の文章です。あとで少し引用しますが、当時の短歌にけんかを売っていて痛快です。歌よみたちは、当然反発し批判しますが、それにさらに反論する形で、「再び歌よみに与ふる書」「三(み)たび歌よみに与ふる書」「四(よ)たび歌よみに与ふる書」「五(いつ)たび歌よみに与ふる書」「六(む)たび歌よみに与ふる書」「七(なな)たび歌よみに与ふる書」「八(や)たび歌よみに与ふる書」「九(ここの)たび歌よみに与ふる書」「十(と)たび歌よみに与ふる書」と書き進めています。よく知られているように、子規は病気をかかえていましたが、じつにパワフルです。
 復本一郎『正岡子規 人生のことば』(岩波新書 2017年)は、同じ年の3月に発行された「ほとゝぎす」第15号からこのような言葉を引いています。

併し(しかし)物に負けてしまふ事は大嫌ひにて此苦しさに苦しめられながら全く負けてはしまはず。苦しさの中にて出来るだけの仕事を致し居候。

強い覚悟をもって「歌よみに与ふる書」を世に問うたことがわかります。

 百人一首の歌もいくつか俎上に載せられていますので、具体的に見ていきましょう。ちょっと付け足すと、俎上(そじょう)の「俎」はまな板です。まず、大江千里の歌から。

月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
月をみると千々に(いろいろと)悲しいことが浮かんでくる。自分ひとりの秋ではないのだけれど

「四たび歌よみに与ふる書」は、この歌について次のように述べています。明治時代の文章ですが現代語訳しました。

月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
という歌は人がとてもほめている歌です。上三句はすらりとして欠点はないけれど、下二句は理屈で蛇足だと思います。歌は感情を述べるものなのに、理屈を述べているのは、歌を知らないからではないでしょうか。この歌の下二句が理屈であることは、なにもしなくてもわかることです。もし「わが身一つの秋と思う」と詠むのなら感情的だけれど、「秋ではないが」と当たり前の事を言えば理屈に陥ります。このような歌をよいと思うのは、その人が理屈を離れることができないためです。風流を解さない人は申すまでもなく、今のいわゆる歌よみたちの多くは理屈を並べて楽しんでいます。厳格に言えばそれは歌ではありませんし歌よみでもありません。                      

「理屈」と「感情」がキーワードですが、要約すると、もっと気持ちを素直に表現しようよということでしょうか。作者が、私だって、自分ひとりの秋ではない、自分ひとりが悲しいわけではないことなど、とうにわかっておりますけどね、と詠むのが「理屈」というのは、おもしろい指摘です。こんなに悲しいのは私だけと思うほうが、なるほど素直な「感情」かもしれません。

  大江氏は漢学者の一族ですが、千里は和歌も得意でした。千里の家集(個人の歌集)は『句題和歌』とも呼ばれていて、漢詩の一節を題にして、それを和歌に詠んでいます。家集の序文に、自分は和歌は上手に詠めないので漢詩句を題に詠んだとありますが、これは謙遜でしょう。漢詩を和歌に翻案して詠むことは、後の時代にも行われていて、千里はその先駆者です。「千々」と「一人」、つまり「千」と「一」という数字の対比も漢詩的なテクニックです。

子規は万葉集と実朝の歌が好きで、古今集がきらいとまとめられることが多いのですが、「歌よみに与ふる書」をあらためて読んでみると、単純に万葉集と実朝の歌に学べと主張しているわけでもないことが、わかってきました。
 (正岡子規の痛快、言いたい放題は、さらにつづく)

2017年5月24日水曜日

ちはやぶる神代も聞かず(2) 業平と伊勢物語

 藤原高子(のちの二条后)と業平が駆け落ちをしたという話は「伊勢物語」にあります。「伊勢物語」は現在ではあまり読まれていませんが、江戸時代までは「源氏物語」と同じぐらい人気がありました。たくさんの本が挿絵付で出版されていますし、物語の場面を描いた絵もたくさん残っています。
 正確に書くと、在原業平は「伊勢物語」の主人公のモデルです。「伊勢物語」は業平の実話ではなく、尾ひれをいっぱいつけたうえに、他の人も話も取り込んだ、Theモテ男伝説なのですが、昔の人たちは業平の実話と信じて読んでいました。そのほうがおもしろいので、私たちもそうしましょうか。
 
異本伊勢物語絵巻 (東京国立博物館蔵)
絵巻は、右から左に  場面が進みます。

『伊勢物語』第6段より

 むかし、男がいた。結ばれるはずのない女に、何年も求婚していたが、ようやく女を盗み出して、とても暗い道をすすんだ。芥川という川に着いたとき、女は草の上においた露を見て、「あれは何」と男に尋ねた。







 行く先は遠く、夜も更けた。鬼の住み家だとは知らないで、雷が激しく鳴り雨もひどく降ったので、崩れそうな蔵の奥に女を押しいれて、男は弓やなぐいを背負って、戸口にいた。








はやく夜が明けてほしいと何度も思いながら座っていたが、鬼が女を一口に食ってしまった。「こわい」と言ったが、雷が鳴っていたので聞こえなかった。
 しだいに夜があけていく。見ると、連れてきた女はいない。男は足ずりして泣いたが、どうしようもない。






    白玉かなにぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを
「宝石かしら、あれは何」とあの人がたずねた時に、「露だよ」と答えて、わが身も露のように消えてしまえばよかったなぁ

 必死に駆ける男に、休息してほしかったのでしょうか。女は「あれは何」と声をかけます。お姫さまでも露ぐらいは知っていると思うので、答えを知りたかったわけではないと思うのです。3枚目の絵の男は足ずりをしていますね。

「伊勢物語」では、この話に続けて、実は鬼じゃなかったんですよと、真相が明かされています。

 これは、二条后が、いとこの女御のもとに、お仕えするようなかたちで住んでいたのを、顔だちがとても美しかったので、盗んで背負って出てきたところを、兄の堀河の大臣(基経)と国経の大納言が、そのころは官位も低かったのだが、内裏に参上するときに、ひどく泣く人がいるのを聞きつけて、駆け落ちをとめて妹を取り返したという。それをこのように鬼と言ったのだ。后がまだとても若くて、入内(じゅだい)する前のことだという。




















ちはやぶる神代もきかず  


 百人一首は、古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集と、新勅撰集という、9つの勅撰和歌集の中から、100人の歌人と歌人が詠んだ歌を1首ずつ選んだものです。天智天皇から順徳院までゆるやかに年代順に並べられています。天智天皇や持統天皇、柿本人麻呂、大伴家持などは万葉集の時代、つまり奈良時代の人ですが、万葉集ではなく、上に記した9つの勅撰集に採られた歌が選ばれています。(平安時代の万葉集にはイロイロアッテナ、それはまた別の機会に)

 定家の百人一首の編集作業を追体験してみましょう。第2次世界大戦が終わった1945年から現在までに、レコードやCDの形で発売された楽曲の中から、100人の歌手と歌手が歌った曲を1曲ずつ選ぶとして、ちょっと待って、100人は多いので二十人一曲としましょうか。まずは20人の中に誰を選ぶか、それからどの曲を選ぶか。山口百恵は選ばれるかな。一曲だけならどの曲にしようか・・・悩みますね。センセーショナルだったのは「あなたがのぞむなら わたし何をされてもいいわ」と歌った「青い果実」でしょうか。デビュー2作目の曲です(今調べたら生まれた日が私と3日しか違わない。知らなんだ)。外国の歌手を選ぶ人もいるでしょうし、20人の演奏家と1曲でもかまいません。選択の基準はいろいろですが、1人1曲だけとなると、これは悩みます。定家もきっとあれこれ悩んで、楽しかっただろうな。


 この歌人が選ばれないのはなぜだという批判や、この歌のほうがいいのではないかという批判がでてくるのは、当然のことで、在原業平の百人一首歌についても、ほかにもっといい歌があるのではないかという声があがっています。
 たとえば藤原公任(五十五番)が『前十五番歌合』で選んだ一首はこの歌。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
いっそのこと、この世の中に桜の木が一本もなかったら、桜のことばかり考えてしまうこともなくて、のどかな気分で春を楽しめただろうになぁ

それでも桜が好き、という屈折した気持ちがこめられています。
 百人一首の業平の歌は、

ちはやぶる神代も聞かず田川からくれなゐに水くくるとは
大昔の神代にも聞いたことがないよ。竜田川を真っ赤なくくり染めにするとは

「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞です。荒ぶる神といったイメージでしょうか。「からくれない」は深紅。紅葉が竜田川に浮かんでいます。この歌は次のような詞書とともに古今集に採られています。

二条の后の、春宮の御息所と申しける時に、
御屏風に田川にもみぢながれたるかたを
かけりけるを題にてよめる
二条后が、春宮の御息所(皇太子の子を産んだ人)といわれていた時に、御屏風に竜田川に紅葉が流れている情景が描かれているのを題にして詠んだ

二条后が人々を集めて和歌の会をひらいた時に詠んだ歌です。主催者は二条后。古文通はそれを知って、二条后と業平ですかと意味深な反応。

 二条后は藤原高子(たかいこ)。清和天皇の后で、陽成院(十三番)の母です。このころは藤原氏が権力を拡大していった時期で、一族の娘は、天皇の后となって、次の天皇を産むのが使命でした。それなのに、一族の期待をになった、将来のお后候補と業平が駆け落ちしたという噂があります。ゴシップ好きにはたまりませんな。百人一首の業平の歌に、定家はわざと二条后がらみの歌を選んだと考えてもいいんじゃない、ということでございます。(長くなるので、つづく)


2017年5月10日水曜日

すきもの 能因


嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり      能因法師

 能因は「すきもの」といわれています。え、すきもの?なにやらモヤモヤと紫やピンクの雲がわいてくる気配が……。ちがいます、ちがいます、いまあなたが考えたような意味ではありません(考えていない?そりゃ失礼)能因の場合は、人ではなく、和歌にいちずに熱中する「すきもの」です。自分が熱中するだけでなく、大江公資の孫、公仲(伝不詳)にも「すき給へ。すきぬれば歌は詠むぞ」(袋草紙)とアドバイスしていました。効果はなかったみたいだけど。公資は相模(六十五番)の夫です。

 さて、能因には、百人一首の「嵐吹く」の歌と同じぐらい有名な歌があります。

  〔万寿〕二年(1025)の春、陸奥国にちょっと
  行ってこようと思い、白河の関で宿をとって、
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因集)

詞書は現代語訳しましたが、原文には「みちのくににあからさまにくだるとて」とあります。古語の「あからさま」の意味は、一時的に、ついちょっと。現代語とは意味が違います。ついちょっと、といっても、都を春霞がたつころに出立し、白河の関に秋風が吹くころ到着していますから、旧暦の一月初旬ごろから七月初旬まで時間が経過しています。都から白河の関まで、片道で半年ぐらい、すべて徒歩で行ったのでしょうか。

白河の関は東山道にあり、陸奥国の入口です。松尾芭蕉の『奥の細道』の旅は「春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ」と、白河の関を越えたいと思い付いてしまって、そわそわしたことから始まります。芭蕉は白河の関で能因の歌を思い浮かべています。

 最初に引用した公資の孫へのアドバイスを含め、清輔(八十四番)は能因のエピソードを袋草紙にたくさん書きとめているのですが、白河の関を詠んだ歌については、このように記しています。

 能因は、本当は奥州に下向していない。この歌を詠むため、ひそかに自宅に引き籠もって、奥州に下向したという噂を流したという。記録には二度下向したとある。そのうち一度は本当か。そのとき八十島記を書いている。(袋草紙)

能因は陸奥国(奥州)には行ってないという説です。さらに袋草紙の約100年後にまとめられた説話集、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、次のようにあります。

 能因は、ほかに肩を並べる人がいないほどの、すきものだったので、「都をば霞とともに…」の歌を詠んだとき、(正直に)都で詠んだといって、この歌を発表してもつまらないと思った。それで、人に知られないように長い間家に引き籠もって、顔の色も黒く日焼けさせてから、陸奥国のほうに修行に行ったときに詠みましたといって、披露しました。(古今著聞集)

二つの本を比べると、今風の表現をすれば、話をどんどん「盛って」いった過程がわかりますね。実際に白河の関を訪れて、現地で詠んだというほうが、感動が増すだろうと考えて、演出したわけです。色白のままでは外を歩いていたと言えないので、日焼けまでして。
 
 能因が白河の関を実際に訪れたことがあるのは事実なので、袋草紙や古今著聞集などの説話のほうがフィクションではないかと一般には考えられています。一方で、このような説話が創られたのは、「すきもの」能因のイメージ戦略の成果とみることもできます。少なくとも能因なら喜びそう。

 最後にもうひとつ、私の好きなエピソードを袋草紙から紹介します。

 帯刀の長(たちはきのおさ)加久矢の節信(ときのぶ)は、歌道に深く心を寄せた者である。初めて能因と会い、互いに意気投合した。能因が、「今日お越しくださった引出物として、見ていただきたいものがあります」と言って、懐(ふところ)から錦の小袋を取り出す。その中に鉋屑(かんなくず)が一枚あった。それを見せていうには、「これはわたしが大切にしている宝物です。長柄の橋(ながらのはし)を造ったときに出た鉋屑です」すると節信は飛び上がって喜び、節信もまた懐から紙に包んだものを取り出す。それを開いてみると、干からびた蛙であった。「これは井手の蛙(かはず)です」お互いに、このようなすばらしいものがあったのかと感激し、それぞれの宝物をまた懐にしまい込んで、別れたという。
 今の世の人なら、きっとばかげていると言うでしょうね。(袋草紙)

鉋屑と蛙の干物に感激する二人の話です。

 長柄の橋は、伊勢(十九番)が次のように詠んでいます。

なにはなる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古今集・誹諧歌)
難波にある長柄の橋も新しく造っていると聞く。今となっては(古くなった)わが身を何にたとえればよいのやら

この歌より前に、長柄の橋は「世中にふりぬる物はつのくにの長柄の橋と我となりけり 」(古今集)と詠まれていて、古いものの代表でした。それが新しく造り替えられたので、わが身だけが古いままかと嘆いているのです。鉋屑はこの時にでたものでしょうか。
 一方、井手にすむ蛙は「かはづなく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」(古今集)のように和歌に詠まれています。
 能因と節信が、和歌に関係するレアアイテムを見せ合って、大喜びしている様子が想像できます。でも、やっぱりなにか変。節信の職である帯刀の長は、皇太子を護衛する武官の指揮官です。能因と肩をならべるほどの「すきもの」が、いたんですね。





2017年5月4日木曜日

立ち別れいなばの山の




立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む 中納言行平

 在原行平、在原業平(十七番)の兄弟は、平城天皇の孫、阿保親王の子です。皇族には姓はつきませんが、「在原」という姓をもらって臣下になりました。有名な例では、物語の中の設定ではありますが、桐壺帝の子の光源氏が、「源」姓をもらって臣下になったのと同じです。この兄弟、弟の業平くんは、伊勢物語の主人公のモデルとされ、モテ伝説が量産されています。江戸時代でも「今業平」(現代版業平)がイケメン・モテ男の代名詞となっていました。しかし、「今業平」はもはや死語かも。残念。この弟と比べると、兄の行平くんには、実直なイメージがあります。兄弟で比べられて、行平は得をしているかもしれないな。
 さて、「立ち別れ」の歌が詠まれたのは855年、因幡国(いなばのくに:現在の鳥取県)の国司となって赴任した時のことです。行平は38歳でした。

立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
京を出立してあなたと別れて因幡国に行ってしまっても、因幡の山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたなら、すぐに帰って来るよ

 掛詞が2つ使われています。第四句の「松」と「待つ」は定番の掛詞ですが、もうひとつは第二句の「いなば」。これから赴任する土地に敬意を表して、その地名「因幡」と、「往なば」を掛けています。古語辞典はほとんどの見出し語に漢字をあてていますが、それは、古語に適切な漢字をあてることができさえすれば、現代語の意味と直接つながるからです。「いなば」にあてた漢字の「往」は、たとえば箱根駅伝の往路・復路の「往」です。往路は東京から箱根に行き、復路は箱根から東京に帰って来ますね。平安時代は常に京が起点ですから、「立ち別れ」の歌の「往なば」は、京から因幡国に行くことです。そして、第五句「帰り来む」は、いわゆる復路で、因幡国から京に帰って来ることです。

  行平の「立ち別れ」の歌は、後の時代の人々に愛され、謡曲「松風」のモチーフになっています。これは行平と松風・村雨という姉妹のお話です。

いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来ん 
それは因幡の 遠山松 
これは懐かし 君ここに すまの浦わの まつのゆきひら 
立ち帰り来ば われもこかげに いざ立ち寄りて 
そなれまつの なつかしや
いなばの山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたら、すぐに帰って来ようよ
それはここからは遠い 因幡国の山の松
ここにあるのは、懐かしい行平の君が、ここ須磨にお住まいになっていた、須磨の浦に生えている松、
行平の君が帰って来られたら わたしも松の木陰に さあ立ち寄って
慣れ親しんだ行平の君 ああ、なつかしいこと

須磨(現在の神戸市)で暮らしていた行平は、松風と村雨という姉妹と愛し合いますが、「立ち別れ」の歌を詠んで都に帰り、再び戻っては来ませんでした。行平を恋しく思う松風は、村雨が止めるのも聞かずに、松を行平と見て近づき、行平の形見の装束を身につけて舞います。

 行平が須磨で暮らしたことがあるのは、事実のようです。

  文徳天皇の御代に、ある事件に巻き込ま
  れたため、摂津国の須磨というところに
  引き籠もっていた時に、宮中にいる人に
  おくりました
わくらばにとふ人あらばすまの浦にもしほたれつつわぶとこたへよ (古今集)
もし、なにかのついでに私のゆくえを尋ねる人がいれば、須磨の浦で袖が潮水にぬれるように、袖を涙でぬらして、つらい暮らしをしていると答えておくれ。

 なるほど涙は目から出る潮水ですね。この歌は、源氏物語「須磨」巻の構想に使われて、有名になりました。

 「立ち別れ」の歌の説明で、京から因幡国に行き、因幡国から京に帰る、としつこく述べましたが、謡曲「松風」では、往路復路が逆になっていて、須磨から京都へ行き、京都から須磨に帰って来ることになります。因幡国はただ「往なば」という言葉のつながりにのみ使われています。

 …と説明すると、じゃあ謡曲「高砂」は間違いですねと考える人がいるかもしれませんが、それは私の本意ではありません。行平を待ち続ける、松風・村雨姉妹の悲嘆は心にひびきます。思うに文学は、事実か、事実ではないか、また、正しいか、正しくないか、を超越した存在です。先行する文学作品を内部に取り込み、そこから新しい文学作品を生み出していく。平安時代も鎌倉時代も室町時代も江戸時代も、古典は人々の心の内に取り込まれて、豊かなものを新たに生み出してきました。それに対して現代は、古典がどんどんやせ細っているように感じます。もっと自由に、古典を楽しんでほしいな。


儀同三司母と伊周

わすれじの行く末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな    「忘れないよ」というあなたの言葉が、この先変わることがないということは難しいでしょうから、「忘れないよ」とあなたがうれしい言葉をかけてくださった今日、このまま死んでしまいとうございます。  作者は道隆の北...