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かささぎ |
今年(2017年)生誕150年をむかえる、正岡子規の「歌よみに与ふる書」の話題は続きます。
私が師事する片桐洋一先生は、三代集(古今集・後撰集・拾遺集)時代の和歌と伊勢物語研究の第一人者です。大阪女子大学(現、大阪府立大学)に入学して最初にうけた、1年次の専門科目の授業で、古典文学の基本は古今集ですとおっしゃるので、小学館古典文学全集の古今集を、バイト代をはたいて買いました。受験参考書以外で、最初に買った古典の本が古今集です。
子規は「再び歌よみに与ふる書」でこのように述べています。現代語訳します。
貫之は下手な歌よみであり『古今集』はくだらない集であります。その貫之や『古今集』を崇拝することは、ほんとうに気が知れないなどと申すものの、実はかく言う私も数年前までは『古今集』を崇拝する一人でしたから、今も世間の人が『古今集』を崇拝する気持ちはよくわかります。崇拝している間は、ほんとうに歌というものは優美で、『古今集』は、中でもとくにすばらしい歌を抜き出したものとばかり思っておりましたが、三年の恋も一瞬に覚めてみると、あんなに意気地の無い女に今までたぶらかされていたのかと、悔しくも腹立たしくもなってしまいます。
うわぁ。
気を取り直しまして、古今集の撰者は、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)、紀友則(きのとものり)の4人です。全員の歌が百人一首に入っていますが、「五たび歌よみに与ふる書」で子規が俎上に載せたのは、躬恒の歌です。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
当て推量に折ったら折れるだろうか。初霜が置いて地面が白くなり、まったく見分けがつかなくなった白菊の花は
同じく霜を詠んだ、大伴家持の百人一首歌はよいのだそうです。
かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
七夕の夜にかささぎが空に渡すという橋、その橋が霜がおいたように白くなっているのをみると、夜がふけたのだなぁと思う
彦星が織り姫のもとに通う時に、かささぎが羽をならべて天の川に橋をかけるという伝説を詠んでいます。以前、北海道の知床峠で天の川を見たことがありますが、真っ白でとてもきれいでした。
次に「五たび歌よみに与ふる書」から引用します。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
この躬恒の歌は、百人一首にあるので誰もが口ずさみますが、一文半文のねうちもない駄歌でございます。趣向が嘘なので趣きもへちまもありません。思うにそれはつまらない嘘だからつまらないのであって、上手な嘘はおもしろうございます。たとえば「鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」はおもしろうございます。躬恒の歌はささいなことをやたらに大げさに述べただけなので悪趣味ですが、家持の歌は、全くありえない事を空想で表現しているので、おもしろく感じられます。嘘を詠むのなら、全くありえない事、とてつもない嘘を詠むのがよい。さもなければ、ありのままに正直に詠むのがよろしいのです。雀が舌を切られたとか、狸が婆に化けたなどの嘘はおもしろうございます。今朝は霜が降って白菊が見えないなどと、真面目な顔をして人を欺く、わざとらしい嘘はきわめて興ざめでございます。
嘘をつくなら大きな嘘をつけと言っているところが、おもしろうございます。でも、舌を切られた雀や婆に化けた狸は、俳句には詠めても、歌にはなかなか詠めないと思うので、歌はありのままに正直に詠むのがよいという結論になるのでしょうか。
私は古典和歌の研究者なので、一応、古典和歌を弁護しますと、たとえつまらない嘘でも最初にその表現を考えついたのはその人のお手柄、決まり切った表現をなんの工夫もなくまねるのは怠け者、ということでいかがでしょうか、正岡子規先生。
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