今年(2017年)は正岡子規生誕150年の年です。正岡子規と聞いて私が連想するのは「歌よみに与ふる書」。1898年(明治31)2月12日、子規が31歳の時に『日本』に掲載されました。書とは書簡のことで、世の歌よみにあてた手紙形式の文章です。あとで少し引用しますが、当時の短歌にけんかを売っていて痛快です。歌よみたちは、当然反発し批判しますが、それにさらに反論する形で、「再び歌よみに与ふる書」「三(み)たび歌よみに与ふる書」「四(よ)たび歌よみに与ふる書」「五(いつ)たび歌よみに与ふる書」「六(む)たび歌よみに与ふる書」「七(なな)たび歌よみに与ふる書」「八(や)たび歌よみに与ふる書」「九(ここの)たび歌よみに与ふる書」「十(と)たび歌よみに与ふる書」と書き進めています。よく知られているように、子規は病気をかかえていましたが、じつにパワフルです。
復本一郎『正岡子規 人生のことば』(岩波新書 2017年)は、同じ年の3月に発行された「ほとゝぎす」第15号からこのような言葉を引いています。
併し(しかし)物に負けてしまふ事は大嫌ひにて此苦しさに苦しめられながら全く負けてはしまはず。苦しさの中にて出来るだけの仕事を致し居候。
強い覚悟をもって「歌よみに与ふる書」を世に問うたことがわかります。
百人一首の歌もいくつか俎上に載せられていますので、具体的に見ていきましょう。ちょっと付け足すと、俎上(そじょう)の「俎」はまな板です。まず、大江千里の歌から。
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
月をみると千々に(いろいろと)悲しいことが浮かんでくる。自分ひとりの秋ではないのだけれど
「四たび歌よみに与ふる書」は、この歌について次のように述べています。明治時代の文章ですが現代語訳しました。
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
という歌は人がとてもほめている歌です。上三句はすらりとして欠点はないけれど、下二句は理屈で蛇足だと思います。歌は感情を述べるものなのに、理屈を述べているのは、歌を知らないからではないでしょうか。この歌の下二句が理屈であることは、なにもしなくてもわかることです。もし「わが身一つの秋と思う」と詠むのなら感情的だけれど、「秋ではないが」と当たり前の事を言えば理屈に陥ります。このような歌をよいと思うのは、その人が理屈を離れることができないためです。風流を解さない人は申すまでもなく、今のいわゆる歌よみたちの多くは理屈を並べて楽しんでいます。厳格に言えばそれは歌ではありませんし歌よみでもありません。
「理屈」と「感情」がキーワードですが、要約すると、もっと気持ちを素直に表現しようよということでしょうか。作者が、私だって、自分ひとりの秋ではない、自分ひとりが悲しいわけではないことなど、とうにわかっておりますけどね、と詠むのが「理屈」というのは、おもしろい指摘です。こんなに悲しいのは私だけと思うほうが、なるほど素直な「感情」かもしれません。
大江氏は漢学者の一族ですが、千里は和歌も得意でした。千里の家集(個人の歌集)は『句題和歌』とも呼ばれていて、漢詩の一節を題にして、それを和歌に詠んでいます。家集の序文に、自分は和歌は上手に詠めないので漢詩句を題に詠んだとありますが、これは謙遜でしょう。漢詩を和歌に翻案して詠むことは、後の時代にも行われていて、千里はその先駆者です。「千々」と「一人」、つまり「千」と「一」という数字の対比も漢詩的なテクニックです。
子規は万葉集と実朝の歌が好きで、古今集がきらいとまとめられることが多いのですが、「歌よみに与ふる書」をあらためて読んでみると、単純に万葉集と実朝の歌に学べと主張しているわけでもないことが、わかってきました。
(正岡子規の痛快、言いたい放題は、さらにつづく)
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