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百人一首を編纂した藤原定家は、八十歳まで生きました。当時としては大変な長生きです。二十代前半に平家が壇の浦で滅亡。六十代のころ承久の乱がおこり、後鳥羽院(九十九番)が隠岐の島、順徳院(百番)が佐渡島に流されています。定家の日記、明月記にはこれらの乱にふれた有名なことばがあります。
世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ
いま世間では、戦乱のうわさでもちきりだが、それについてはここには書かない。朝廷の旗の下におこなわれる戦いは、私の関知するところではない。
でも、和歌に関しては、たとえ相手が後鳥羽院であっても、自説を主張して譲らない、そんな人だったようです。
また、定家は父の俊成(八十三番)とともに、古今集を初めとする勅撰集、代々の歌人の家集(個人の歌集)、源氏物語、土佐日記などの書写を、家の者たちを監督して、精力的にすすめました。このころに書写された作品の多くは、俊成・定家の子孫の冷泉家の文庫に今も残っていて、不定期ですが、展覧会などに出品されて、実物を見ることができます。高校の古典の時間に、「定家さんたちが書写してくれたおかげで、現在まで残った、古文の作品がたくさんあるのよ」と、だから感謝しなくちゃという気持ちで話すのですが、多くの生徒が、ちえっ、いらんことをしてくれた、という表情になるのが、ウウウ…とても悲しいの。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
きっと来ないと思いながら、それでもあなたを待つ、まつほの浦で、夕方の風が止まるころに海藻を焼くのですが、私自身も、じりじりと焦げていく海藻のように、あなたの訪れを待ち焦がれてしまうのです
この歌は建保四年〔1216年〕に催された内裏百番歌合に出詠されました。そのころの歌人にとって、「まつほの浦」は聞きなれない地名だったようです。それもそのはずで、定家は、万葉集の長歌への返歌(返事の歌)として、「来ぬ人を」の歌を詠んだのです。当時、万葉集の特に長歌は、今ほど簡単に読むことができませんでした。
(神亀)三年〔726年〕丙寅秋九月十五日、播磨国印南野に行幸した時、笠金村が作った歌一首
なきすみの ふなせゆみゆる あはぢしま まつほのうらに
あさなぎに たまもかりつつ ゆふなぎに もしほやきつつ
あまをとめ ありとはきけど みにゆかむ よしのなければ
ますらをの こころはなしに たわやめの おもひたわみて
たもとほり あれはぞこふる ふなかぢをなみ (万葉集)
名寸隅の 船泊から見える 淡路島の 松帆の浦に
朝凪には いつも玉藻を刈り 夕凪には いつも藻塩を焼く
海人乙女が いると聞いているのだけれど 逢いに行く 手段がないので
強く勇ましい 心はなくて なよなよと 心がくじけて
行ったり来たりして 私は恋しく思うのだ 舟も楫も無いので
名寸隅(なきすみ)は現在の兵庫県明石市の地名で、松帆の浦はその対岸の淡路島北端の地名です。逢いに行きたいけど行けない、だって舟がないんだもの、となんとも煮え切らない男の歌ですが、定家は、万葉集の長歌に詠まれている、松帆の浦の海人乙女のかわりに、500年の時空をこえて、それでもあなたを恋い焦がれて待っていますと、返歌を送ったのです。タイムマシンがなくても、過去と交信できるのですね。素敵。
500年待つなんて!
返信削除松も枯れるでしょうに。
いゃあ、今もまだ待っているのではないでしょうか
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