2017年7月27日木曜日
儀同三司母と伊周
わすれじの行く末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな
「忘れないよ」というあなたの言葉が、この先変わることがないということは難しいでしょうから、「忘れないよ」とあなたがうれしい言葉をかけてくださった今日、このまま死んでしまいとうございます。
作者は道隆の北の方の貴子。伊周や定子を産みました。高内侍の名で宮中に仕えていましたが、『大鏡』によると、漢文の知識が並みの男よりも優れていて、帝の御前でおこなわれる作文会(さくもんえ:漢詩を作って披露しあう会)にも参加したといいます。『大鏡』は、彼女が零落したのは女だてらに漢学の才能がありすぎたせいだとも書き添えていますが、いつの時代にもつまらないことをいう人たちはいるものですね。
道隆の中関白家は栄えました。正暦元年(990)1月、定子が一条天皇のもとに入内、5月、道隆は出家した父兼家のあとを継いで関白に就任します。伊周もとんとん拍子に内大臣まで出世しました。
ところが、正暦4年(994)の冬ごろから道隆は「水をのみきこしめして、いみじう細らせたまへり(水ばかりお飲みになって、ひどくお痩せになる)」という状態になります。そこで伊周に関白の職を継がせたいと願いますが、果たせず、翌、長徳元年4月に亡くなります。関白の位は道隆の弟の道兼へ。当時猛威をふるっていた疫病にかかった道兼が、位について七日で亡くなったあとは、政治の実権は道長に移ります。失意の伊周は、花山院に恋人を盗られたと勘違いして、院に向けて弓を射かけ衣服の袖に矢が通ってしまうという事件に関与します。東三条院詮子や道長を呪詛させていたことなども明るみに出ました。定子が懐妊しているというのに、伊周の分別のなさが事態をどんどん悪化させます。(『栄花物語』みはてぬゆめ)
伊周と弟の隆家の配流が決まり、検非違使が邸に押し寄せます。その場面の一部を現代語訳で紹介しましょう。
宮の御前(定子)、母北の方は、伊周の袖をずっとつかんで、決してお放しにならない(略)検非違使がせかすので、伊周は仕方なく出立なさるが、松君(道綱)がひどく父を慕うので、うまくなだめて他の所につれていかせ、このありさまを見せないようにする。(略)伊周が御車を寄せてお乗りになると、母北の方はそのまま腰に抱きついて続いてお乗りになるので、「母北の方が、帥(伊周)の袖をずっとつかんで乗ろうとなさっています」と報告させたところ、「それは不都合なことだ、引き離せ」とのことだが、離れる様子は無い。せめて山﨑まで行くのだ行くのだと、ひたすらお乗りになるので、しかたがない、どうしようもなくてお車を出立させた。長徳二年四月二十四日のことだった。
(『栄花物語』浦々の別れ)
伊周と隆家が邸を出立した直後に、定子は鋏をつかって自分で髪を切り尼になります。一条天皇も東三条院詮子も心を痛め、伊周の配流先は大宰府から播磨に変わりました。その後、母北の方の病が悪化し「帥殿(伊周)今一度見たてまつりて死なん、帥殿今一度見たてまつりて死なん」と寝ても覚めても言い続けます。伊周はそれを伝え聞いて、覚悟をきめてひそかに京に戻り、家族と涙の再会をしますが、伊周が無断で上京したことが朝廷に知られてしまいます。最初の決定どおり、伊周は大宰府に流されることになり、ほどなく母北の方は亡くなります。
その後伊周は都に召喚され、地位も回復しますが、大臣の位につくことはかないませんでした。「儀同三司」は、三司(太政大臣・左大臣・右大臣)ではないけれど、儀礼的に三司と同じ扱いをうける人という意味で、伊周が自らそう名乗ったようです。
儀同三司母の晩年を知ってしまうと、原因は夫である道隆の心変わりではなかったものの、幸せの絶頂で死にたいという百人一首歌の願いが切なく心に響きます。もちろん、伊周の誕生、定子の誕生、子どもたちの成長…。幸せなことは、そのあともたくさんあったでしょうが。
2017年7月26日水曜日
わすれじの行く末までは 儀同三司母
わすれじの行く末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな 儀同三司母
「忘れないよ」というあなたの言葉が、この先変わることがないということは難しいでしょうから、「忘れないよ」とあなたがうれしい言葉をかけてくださった今日、このまま死んでしまいとうございます。
作者名の儀同三司母は「ぎどうさんしのはは」と読みます。「儀同三司」は、三司(太政大臣・左大臣・右大臣)ではないけれど、儀礼的に三司と同じ扱いをうける人という意味で、藤原伊周のことです。ということは儀同三司母は、清少納言がお仕えした、中宮定子の母でもあります。高階氏の出身で、宮中では高内侍(こうのないし)と呼ばれていました。そこで道隆に見初められたのでしょう。
「わすれじの」の歌は、新古今集・恋三の巻頭歌です。(百人一首の作者名は、勅撰集の作者名をほぼそのまま採用しています)
中関白かよひそめ侍りけるころ 儀同三司母
わすれじのゆくすゑまではかたければけふをかぎりの命ともがな
「中関白」は道隆のこと。「かよひそめ侍りけるころ」とは、「そめ」は書き初めの「初め」と同じですから、結婚したばかりのころという意味。この歌からは、幸せなまま死にたいと、喜びと不安に揺れ動く心が伝わってきます。
さて、「思いわびさても命は 道因法師」のページでも、「恋死に」という表現を紹介しましたが、そのときに引いた古今集の紀友則の歌は次のようなものでした。
いのちやはなにぞはつゆのあだ物をあふにしかへばをしからなくに
命がなんだっていうんだ、露のようにはかないものなのだから、あなたに逢えるのなら捨てても惜しくはないのになあ
また、新古今集の巻三では、「わすれじの」の歌から二首おいて、次のような藤原頼忠(廉義公)の歌があります。
人の許にまかりそめて、あしたにつかはしける 廉義公
きのふまであふにしかへばとおもひしをけふは命のをしくもあるかな
昨日までは、あなたに逢えるのなら捨てても惜しくはないと思っていたけど、あなたと結ばれた今日は、命が惜しくなってしまったよ
古今集の友則の歌と同じ「あふにしかへば」という特徴のある語句を使っていますが、これは意図的なもので、友則の歌をベースにして詠んでいることを示すための技法です。(廉義公の歌が詠まれたのは平安時代中期ごろで、まだ本歌取の技法は完成していませんが、本歌取の“卵”的技法といえそうです)
廉義公の歌は百人一首の儀同三司母の歌とは逆に、いつまでも今の幸せな状態でいたいから命が惜しくなったと詠んでいます。「男歌」と「女歌」、厳密には代作もあるので、男の立場で詠んだ歌と女の立場で詠んだ歌ですが、両者の違いがよく顕れていると思いませんか。
百人一首では他にも、
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな 藤原義孝(五十番)
あなたに逢うためなら捨てても惜しくないと思っていた命まで、あなたと結ばれたことで、長く生きたいと思うようになったんだ
もてもての貴公子義孝が、同じように詠んでいます。お気楽で調子のよい男子たちですね。
儀同三司母と息子の伊周、孫の道雅(五十三番)の波瀾に富む人生については、また別の機会に。
2017年6月1日木曜日
思いわびさても命は 道因法師
光琳かるたをごらんになったことはありますか。上の句を書いた読み札には歌人の絵、下の句を書いた取り札には和歌に詠まれた題材などの絵が書かれています。日本国語大辞典には、江戸時代、文政(1818~30)のころに京都祇園あたりで、いわゆる「ぶさいく」な顔を「光琳」たちと言ったとあります。そこで、百人一首に親しむため、毎年授業のなかで光琳かるたに描かれた歌人の中から「変顔」ベスト3を投票で選んでいるのですが、毎年上位に選ばれる歌人が何人かいて、道因法師もその中の一人です。
京都大石天狗堂ホームページ 光琳かるた 道因法師
道因法師の百人一首歌は恋心を切々と詠んでいます。
思いわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり
思いどおりにならなくてつらく悲しい、それでも命は尽きないのに、つらさに堪えられなくて流れるのは涙なのだなぁ
和歌には「恋死に」という言葉があって、伝統的な表現です。まず、万葉集から例をひとつ、
ますらをのさとき心もいまは無し恋の奴にわれは死ぬべし
知性もなんもかんも吹っ飛んで、自分の恋心にふりまわされて、きっと死んでしまうよ、ぼくは、と泣き言をいってますね。藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦」の回でも、ふだんは勇ましい「ますらを」が、恋をして、もじもじしている万葉歌を紹介しましたが、そんなものかしら。
古今集・恋二の巻末の三首も、なにかストーリー仕立てのようです。
今ははや恋ひ死なましをあひ見むとたのめし事ぞいのちなりける(清原深養父)
今となっては、さっさと恋のために死んでしまいたいのだけど、あなたに逢えるかもと期待してしまうことが、命の綱なのですよ
たのめつつあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらなむ(凡河内躬恒)
なんども期待させられては、逢えないまま年月をすごす、嘘をいわれても懲りずに期待してしまう心を、あの人にわかってほしいよ
いのちやはなにぞはつゆのあだ物をあふにしかへばをしからなくに(紀友則)
命がなんだっていうんだ、露のようにはかないものなのだから、あなたに逢えるのなら捨てても惜しくはないのになあ
男3人でくだを巻いているような雰囲気がありますね。
道因は千載集初出の歌人です。1090年(寛治四)に生まれ、千載集が完成する少し前に、九十歳ぐらいで亡くなりました。ということは、金葉集(1124年ごろ成立)に入集せず、詞花集(1151年ごろ成立)にも入集せず、千載集でようやく勅撰歌人になりました。鴨長明(1155~1216)の歌学書『無名抄』には次のような話が記されています。
九十歳ぐらいになって、耳なども聞こえにくくなったのでしょうか、歌会の時はことさらに講師(こうじ 和歌を詠み上げて披露する人)の席のすぐ近くに行って、そばにぴったりと寄り添って座り、ひどく年老いた姿で耳をかたむけながら、一心に聞いている様子など、生半可な集中力ではありませんでした。
千載集が撰ばれましたのは、道因入道が亡くなった後のことです。たとえ亡くなったあとでも、あれほど歌道に熱心な人だったからといって、特別に十八首を集にお入れになったところ、撰者の夢の中に現れて、涙を流しながら感謝の言葉を述べたので、とても感激して、さらに二首を加えて、二十首になさったということです。それは当然のことだと思いますよ。
私のお気に入りの「すきもの」シリーズ、第2回めは道因法師でした。
京都大石天狗堂ホームページ 光琳かるた 道因法師
道因法師の百人一首歌は恋心を切々と詠んでいます。
思いわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり
思いどおりにならなくてつらく悲しい、それでも命は尽きないのに、つらさに堪えられなくて流れるのは涙なのだなぁ
和歌には「恋死に」という言葉があって、伝統的な表現です。まず、万葉集から例をひとつ、
ますらをのさとき心もいまは無し恋の奴にわれは死ぬべし
知性もなんもかんも吹っ飛んで、自分の恋心にふりまわされて、きっと死んでしまうよ、ぼくは、と泣き言をいってますね。藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦」の回でも、ふだんは勇ましい「ますらを」が、恋をして、もじもじしている万葉歌を紹介しましたが、そんなものかしら。
古今集・恋二の巻末の三首も、なにかストーリー仕立てのようです。
今ははや恋ひ死なましをあひ見むとたのめし事ぞいのちなりける(清原深養父)
今となっては、さっさと恋のために死んでしまいたいのだけど、あなたに逢えるかもと期待してしまうことが、命の綱なのですよ
たのめつつあはで年ふるいつはりにこりぬ心を人はしらなむ(凡河内躬恒)
なんども期待させられては、逢えないまま年月をすごす、嘘をいわれても懲りずに期待してしまう心を、あの人にわかってほしいよ
いのちやはなにぞはつゆのあだ物をあふにしかへばをしからなくに(紀友則)
命がなんだっていうんだ、露のようにはかないものなのだから、あなたに逢えるのなら捨てても惜しくはないのになあ
男3人でくだを巻いているような雰囲気がありますね。
道因は千載集初出の歌人です。1090年(寛治四)に生まれ、千載集が完成する少し前に、九十歳ぐらいで亡くなりました。ということは、金葉集(1124年ごろ成立)に入集せず、詞花集(1151年ごろ成立)にも入集せず、千載集でようやく勅撰歌人になりました。鴨長明(1155~1216)の歌学書『無名抄』には次のような話が記されています。
九十歳ぐらいになって、耳なども聞こえにくくなったのでしょうか、歌会の時はことさらに講師(こうじ 和歌を詠み上げて披露する人)の席のすぐ近くに行って、そばにぴったりと寄り添って座り、ひどく年老いた姿で耳をかたむけながら、一心に聞いている様子など、生半可な集中力ではありませんでした。
千載集が撰ばれましたのは、道因入道が亡くなった後のことです。たとえ亡くなったあとでも、あれほど歌道に熱心な人だったからといって、特別に十八首を集にお入れになったところ、撰者の夢の中に現れて、涙を流しながら感謝の言葉を述べたので、とても感激して、さらに二首を加えて、二十首になさったということです。それは当然のことだと思いますよ。
私のお気に入りの「すきもの」シリーズ、第2回めは道因法師でした。
2017年5月27日土曜日
心あてに折らばや折らむ 続、正岡子規言いたい放題
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| かささぎ |
今年(2017年)生誕150年をむかえる、正岡子規の「歌よみに与ふる書」の話題は続きます。
私が師事する片桐洋一先生は、三代集(古今集・後撰集・拾遺集)時代の和歌と伊勢物語研究の第一人者です。大阪女子大学(現、大阪府立大学)に入学して最初にうけた、1年次の専門科目の授業で、古典文学の基本は古今集ですとおっしゃるので、小学館古典文学全集の古今集を、バイト代をはたいて買いました。受験参考書以外で、最初に買った古典の本が古今集です。
子規は「再び歌よみに与ふる書」でこのように述べています。現代語訳します。
貫之は下手な歌よみであり『古今集』はくだらない集であります。その貫之や『古今集』を崇拝することは、ほんとうに気が知れないなどと申すものの、実はかく言う私も数年前までは『古今集』を崇拝する一人でしたから、今も世間の人が『古今集』を崇拝する気持ちはよくわかります。崇拝している間は、ほんとうに歌というものは優美で、『古今集』は、中でもとくにすばらしい歌を抜き出したものとばかり思っておりましたが、三年の恋も一瞬に覚めてみると、あんなに意気地の無い女に今までたぶらかされていたのかと、悔しくも腹立たしくもなってしまいます。
うわぁ。
気を取り直しまして、古今集の撰者は、紀貫之(きのつらゆき)、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)、紀友則(きのとものり)の4人です。全員の歌が百人一首に入っていますが、「五たび歌よみに与ふる書」で子規が俎上に載せたのは、躬恒の歌です。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
当て推量に折ったら折れるだろうか。初霜が置いて地面が白くなり、まったく見分けがつかなくなった白菊の花は
同じく霜を詠んだ、大伴家持の百人一首歌はよいのだそうです。
かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
七夕の夜にかささぎが空に渡すという橋、その橋が霜がおいたように白くなっているのをみると、夜がふけたのだなぁと思う
彦星が織り姫のもとに通う時に、かささぎが羽をならべて天の川に橋をかけるという伝説を詠んでいます。以前、北海道の知床峠で天の川を見たことがありますが、真っ白でとてもきれいでした。
次に「五たび歌よみに与ふる書」から引用します。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
この躬恒の歌は、百人一首にあるので誰もが口ずさみますが、一文半文のねうちもない駄歌でございます。趣向が嘘なので趣きもへちまもありません。思うにそれはつまらない嘘だからつまらないのであって、上手な嘘はおもしろうございます。たとえば「鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」はおもしろうございます。躬恒の歌はささいなことをやたらに大げさに述べただけなので悪趣味ですが、家持の歌は、全くありえない事を空想で表現しているので、おもしろく感じられます。嘘を詠むのなら、全くありえない事、とてつもない嘘を詠むのがよい。さもなければ、ありのままに正直に詠むのがよろしいのです。雀が舌を切られたとか、狸が婆に化けたなどの嘘はおもしろうございます。今朝は霜が降って白菊が見えないなどと、真面目な顔をして人を欺く、わざとらしい嘘はきわめて興ざめでございます。
嘘をつくなら大きな嘘をつけと言っているところが、おもしろうございます。でも、舌を切られた雀や婆に化けた狸は、俳句には詠めても、歌にはなかなか詠めないと思うので、歌はありのままに正直に詠むのがよいという結論になるのでしょうか。
私は古典和歌の研究者なので、一応、古典和歌を弁護しますと、たとえつまらない嘘でも最初にその表現を考えついたのはその人のお手柄、決まり切った表現をなんの工夫もなくまねるのは怠け者、ということでいかがでしょうか、正岡子規先生。
2017年5月26日金曜日
月見れば千々にものこそ 正岡子規言いたい放題
今年(2017年)は正岡子規生誕150年の年です。正岡子規と聞いて私が連想するのは「歌よみに与ふる書」。1898年(明治31)2月12日、子規が31歳の時に『日本』に掲載されました。書とは書簡のことで、世の歌よみにあてた手紙形式の文章です。あとで少し引用しますが、当時の短歌にけんかを売っていて痛快です。歌よみたちは、当然反発し批判しますが、それにさらに反論する形で、「再び歌よみに与ふる書」「三(み)たび歌よみに与ふる書」「四(よ)たび歌よみに与ふる書」「五(いつ)たび歌よみに与ふる書」「六(む)たび歌よみに与ふる書」「七(なな)たび歌よみに与ふる書」「八(や)たび歌よみに与ふる書」「九(ここの)たび歌よみに与ふる書」「十(と)たび歌よみに与ふる書」と書き進めています。よく知られているように、子規は病気をかかえていましたが、じつにパワフルです。
復本一郎『正岡子規 人生のことば』(岩波新書 2017年)は、同じ年の3月に発行された「ほとゝぎす」第15号からこのような言葉を引いています。
併し(しかし)物に負けてしまふ事は大嫌ひにて此苦しさに苦しめられながら全く負けてはしまはず。苦しさの中にて出来るだけの仕事を致し居候。
強い覚悟をもって「歌よみに与ふる書」を世に問うたことがわかります。
百人一首の歌もいくつか俎上に載せられていますので、具体的に見ていきましょう。ちょっと付け足すと、俎上(そじょう)の「俎」はまな板です。まず、大江千里の歌から。
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
月をみると千々に(いろいろと)悲しいことが浮かんでくる。自分ひとりの秋ではないのだけれど
「四たび歌よみに与ふる書」は、この歌について次のように述べています。明治時代の文章ですが現代語訳しました。
月見れば千々に物こそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど
という歌は人がとてもほめている歌です。上三句はすらりとして欠点はないけれど、下二句は理屈で蛇足だと思います。歌は感情を述べるものなのに、理屈を述べているのは、歌を知らないからではないでしょうか。この歌の下二句が理屈であることは、なにもしなくてもわかることです。もし「わが身一つの秋と思う」と詠むのなら感情的だけれど、「秋ではないが」と当たり前の事を言えば理屈に陥ります。このような歌をよいと思うのは、その人が理屈を離れることができないためです。風流を解さない人は申すまでもなく、今のいわゆる歌よみたちの多くは理屈を並べて楽しんでいます。厳格に言えばそれは歌ではありませんし歌よみでもありません。
「理屈」と「感情」がキーワードですが、要約すると、もっと気持ちを素直に表現しようよということでしょうか。作者が、私だって、自分ひとりの秋ではない、自分ひとりが悲しいわけではないことなど、とうにわかっておりますけどね、と詠むのが「理屈」というのは、おもしろい指摘です。こんなに悲しいのは私だけと思うほうが、なるほど素直な「感情」かもしれません。
大江氏は漢学者の一族ですが、千里は和歌も得意でした。千里の家集(個人の歌集)は『句題和歌』とも呼ばれていて、漢詩の一節を題にして、それを和歌に詠んでいます。家集の序文に、自分は和歌は上手に詠めないので漢詩句を題に詠んだとありますが、これは謙遜でしょう。漢詩を和歌に翻案して詠むことは、後の時代にも行われていて、千里はその先駆者です。「千々」と「一人」、つまり「千」と「一」という数字の対比も漢詩的なテクニックです。
子規は万葉集と実朝の歌が好きで、古今集がきらいとまとめられることが多いのですが、「歌よみに与ふる書」をあらためて読んでみると、単純に万葉集と実朝の歌に学べと主張しているわけでもないことが、わかってきました。
(正岡子規の痛快、言いたい放題は、さらにつづく)
2017年5月24日水曜日
ちはやぶる神代も聞かず(2) 業平と伊勢物語
藤原高子(のちの二条后)と業平が駆け落ちをしたという話は「伊勢物語」にあります。「伊勢物語」は現在ではあまり読まれていませんが、江戸時代までは「源氏物語」と同じぐらい人気がありました。たくさんの本が挿絵付で出版されていますし、物語の場面を描いた絵もたくさん残っています。
正確に書くと、在原業平は「伊勢物語」の主人公のモデルです。「伊勢物語」は業平の実話ではなく、尾ひれをいっぱいつけたうえに、他の人も話も取り込んだ、Theモテ男伝説なのですが、昔の人たちは業平の実話と信じて読んでいました。そのほうがおもしろいので、私たちもそうしましょうか。
絵巻は、右から左に ← 場面が進みます。
『伊勢物語』第6段より

むかし、男がいた。結ばれるはずのない女に、何年も求婚していたが、ようやく女を盗み出して、とても暗い道をすすんだ。芥川という川に着いたとき、女は草の上においた露を見て、「あれは何」と男に尋ねた。

行く先は遠く、夜も更けた。鬼の住み家だとは知らないで、雷が激しく鳴り雨もひどく降ったので、崩れそうな蔵の奥に女を押しいれて、男は弓やなぐいを背負って、戸口にいた。
はやく夜が明けてほしいと何度も思いながら座っていたが、鬼が女を一口に食ってしまった。「こわい」と言ったが、雷が鳴っていたので聞こえなかった。
しだいに夜があけていく。見ると、連れてきた女はいない。男は足ずりして泣いたが、どうしようもない。
白玉かなにぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを
「宝石かしら、あれは何」とあの人がたずねた時に、「露だよ」と答えて、わが身も露のように消えてしまえばよかったなぁ
必死に駆ける男に、休息してほしかったのでしょうか。女は「あれは何」と声をかけます。お姫さまでも露ぐらいは知っていると思うので、答えを知りたかったわけではないと思うのです。3枚目の絵の男は足ずりをしていますね。
「伊勢物語」では、この話に続けて、実は鬼じゃなかったんですよと、真相が明かされています。
これは、二条后が、いとこの女御のもとに、お仕えするようなかたちで住んでいたのを、顔だちがとても美しかったので、盗んで背負って出てきたところを、兄の堀河の大臣(基経)と国経の大納言が、そのころは官位も低かったのだが、内裏に参上するときに、ひどく泣く人がいるのを聞きつけて、駆け落ちをとめて妹を取り返したという。それをこのように鬼と言ったのだ。后がまだとても若くて、入内(じゅだい)する前のことだという。
正確に書くと、在原業平は「伊勢物語」の主人公のモデルです。「伊勢物語」は業平の実話ではなく、尾ひれをいっぱいつけたうえに、他の人も話も取り込んだ、Theモテ男伝説なのですが、昔の人たちは業平の実話と信じて読んでいました。そのほうがおもしろいので、私たちもそうしましょうか。
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| 異本伊勢物語絵巻 (東京国立博物館蔵) |
『伊勢物語』第6段より

むかし、男がいた。結ばれるはずのない女に、何年も求婚していたが、ようやく女を盗み出して、とても暗い道をすすんだ。芥川という川に着いたとき、女は草の上においた露を見て、「あれは何」と男に尋ねた。

行く先は遠く、夜も更けた。鬼の住み家だとは知らないで、雷が激しく鳴り雨もひどく降ったので、崩れそうな蔵の奥に女を押しいれて、男は弓やなぐいを背負って、戸口にいた。
はやく夜が明けてほしいと何度も思いながら座っていたが、鬼が女を一口に食ってしまった。「こわい」と言ったが、雷が鳴っていたので聞こえなかった。
しだいに夜があけていく。見ると、連れてきた女はいない。男は足ずりして泣いたが、どうしようもない。
白玉かなにぞと人の問ひしとき露とこたへて消えなましものを
「宝石かしら、あれは何」とあの人がたずねた時に、「露だよ」と答えて、わが身も露のように消えてしまえばよかったなぁ
必死に駆ける男に、休息してほしかったのでしょうか。女は「あれは何」と声をかけます。お姫さまでも露ぐらいは知っていると思うので、答えを知りたかったわけではないと思うのです。3枚目の絵の男は足ずりをしていますね。
「伊勢物語」では、この話に続けて、実は鬼じゃなかったんですよと、真相が明かされています。
これは、二条后が、いとこの女御のもとに、お仕えするようなかたちで住んでいたのを、顔だちがとても美しかったので、盗んで背負って出てきたところを、兄の堀河の大臣(基経)と国経の大納言が、そのころは官位も低かったのだが、内裏に参上するときに、ひどく泣く人がいるのを聞きつけて、駆け落ちをとめて妹を取り返したという。それをこのように鬼と言ったのだ。后がまだとても若くて、入内(じゅだい)する前のことだという。
ちはやぶる神代もきかず
百人一首は、古今集・後撰集・拾遺集・後拾遺集・金葉集・詞花集・千載集・新古今集と、新勅撰集という、9つの勅撰和歌集の中から、100人の歌人と歌人が詠んだ歌を1首ずつ選んだものです。天智天皇から順徳院までゆるやかに年代順に並べられています。天智天皇や持統天皇、柿本人麻呂、大伴家持などは万葉集の時代、つまり奈良時代の人ですが、万葉集ではなく、上に記した9つの勅撰集に採られた歌が選ばれています。(平安時代の万葉集にはイロイロアッテナ、それはまた別の機会に)
定家の百人一首の編集作業を追体験してみましょう。第2次世界大戦が終わった1945年から現在までに、レコードやCDの形で発売された楽曲の中から、100人の歌手と歌手が歌った曲を1曲ずつ選ぶとして、ちょっと待って、100人は多いので二十人一曲としましょうか。まずは20人の中に誰を選ぶか、それからどの曲を選ぶか。山口百恵は選ばれるかな。一曲だけならどの曲にしようか・・・悩みますね。センセーショナルだったのは「あなたがのぞむなら わたし何をされてもいいわ」と歌った「青い果実」でしょうか。デビュー2作目の曲です(今調べたら生まれた日が私と3日しか違わない。知らなんだ)。外国の歌手を選ぶ人もいるでしょうし、20人の演奏家と1曲でもかまいません。選択の基準はいろいろですが、1人1曲だけとなると、これは悩みます。定家もきっとあれこれ悩んで、楽しかっただろうな。
この歌人が選ばれないのはなぜだという批判や、この歌のほうがいいのではないかという批判がでてくるのは、当然のことで、在原業平の百人一首歌についても、ほかにもっといい歌があるのではないかという声があがっています。
たとえば藤原公任(五十五番)が『前十五番歌合』で選んだ一首はこの歌。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
いっそのこと、この世の中に桜の木が一本もなかったら、桜のことばかり考えてしまうこともなくて、のどかな気分で春を楽しめただろうになぁ
それでも桜が好き、という屈折した気持ちがこめられています。
百人一首の業平の歌は、
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
大昔の神代にも聞いたことがないよ。竜田川を真っ赤なくくり染めにするとは
「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞です。荒ぶる神といったイメージでしょうか。「からくれない」は深紅。紅葉が竜田川に浮かんでいます。この歌は次のような詞書とともに古今集に採られています。
二条の后の、春宮の御息所と申しける時に、
御屏風に竜田川にもみぢながれたるかたを
かけりけるを題にてよめる
二条后が、春宮の御息所(皇太子の子を産んだ人)といわれていた時に、御屏風に竜田川に紅葉が流れている情景が描かれているのを題にして詠んだ
二条后が人々を集めて和歌の会をひらいた時に詠んだ歌です。主催者は二条后。古文通はそれを知って、二条后と業平ですかと意味深な反応。
二条后は藤原高子(たかいこ)。清和天皇の后で、陽成院(十三番)の母です。このころは藤原氏が権力を拡大していった時期で、一族の娘は、天皇の后となって、次の天皇を産むのが使命でした。それなのに、一族の期待をになった、将来のお后候補と業平が駆け落ちしたという噂があります。ゴシップ好きにはたまりませんな。百人一首の業平の歌に、定家はわざと二条后がらみの歌を選んだと考えてもいいんじゃない、ということでございます。(長くなるので、つづく)
2017年5月10日水曜日
すきもの 能因
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり 能因法師
能因は「すきもの」といわれています。え、すきもの?なにやらモヤモヤと紫やピンクの雲がわいてくる気配が……。ちがいます、ちがいます、いまあなたが考えたような意味ではありません(考えていない?そりゃ失礼)能因の場合は、人ではなく、和歌にいちずに熱中する「すきもの」です。自分が熱中するだけでなく、大江公資の孫、公仲(伝不詳)にも「すき給へ。すきぬれば歌は詠むぞ」(袋草紙)とアドバイスしていました。効果はなかったみたいだけど。公資は相模(六十五番)の夫です。
さて、能因には、百人一首の「嵐吹く」の歌と同じぐらい有名な歌があります。
〔万寿〕二年(1025)の春、陸奥国にちょっと
行ってこようと思い、白河の関で宿をとって、
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因集)
詞書は現代語訳しましたが、原文には「みちのくににあからさまにくだるとて」とあります。古語の「あからさま」の意味は、一時的に、ついちょっと。現代語とは意味が違います。ついちょっと、といっても、都を春霞がたつころに出立し、白河の関に秋風が吹くころ到着していますから、旧暦の一月初旬ごろから七月初旬まで時間が経過しています。都から白河の関まで、片道で半年ぐらい、すべて徒歩で行ったのでしょうか。
最初に引用した公資の孫へのアドバイスを含め、清輔(八十四番)は能因のエピソードを袋草紙にたくさん書きとめているのですが、白河の関を詠んだ歌については、このように記しています。
能因は、本当は奥州に下向していない。この歌を詠むため、ひそかに自宅に引き籠もって、奥州に下向したという噂を流したという。記録には二度下向したとある。そのうち一度は本当か。そのとき八十島記を書いている。(袋草紙)
能因は陸奥国(奥州)には行ってないという説です。さらに袋草紙の約100年後にまとめられた説話集、古今著聞集(ここんちょもんじゅう)には、次のようにあります。
能因は、ほかに肩を並べる人がいないほどの、すきものだったので、「都をば霞とともに…」の歌を詠んだとき、(正直に)都で詠んだといって、この歌を発表してもつまらないと思った。それで、人に知られないように長い間家に引き籠もって、顔の色も黒く日焼けさせてから、陸奥国のほうに修行に行ったときに詠みましたといって、披露しました。(古今著聞集)
二つの本を比べると、今風の表現をすれば、話をどんどん「盛って」いった過程がわかりますね。実際に白河の関を訪れて、現地で詠んだというほうが、感動が増すだろうと考えて、演出したわけです。色白のままでは外を歩いていたと言えないので、日焼けまでして。
能因が白河の関を実際に訪れたことがあるのは事実なので、袋草紙や古今著聞集などの説話のほうがフィクションではないかと一般には考えられています。一方で、このような説話が創られたのは、「すきもの」能因のイメージ戦略の成果とみることもできます。少なくとも能因なら喜びそう。
最後にもうひとつ、私の好きなエピソードを袋草紙から紹介します。
帯刀の長(たちはきのおさ)加久矢の節信(ときのぶ)は、歌道に深く心を寄せた者である。初めて能因と会い、互いに意気投合した。能因が、「今日お越しくださった引出物として、見ていただきたいものがあります」と言って、懐(ふところ)から錦の小袋を取り出す。その中に鉋屑(かんなくず)が一枚あった。それを見せていうには、「これはわたしが大切にしている宝物です。長柄の橋(ながらのはし)を造ったときに出た鉋屑です」すると節信は飛び上がって喜び、節信もまた懐から紙に包んだものを取り出す。それを開いてみると、干からびた蛙であった。「これは井手の蛙(かはず)です」お互いに、このようなすばらしいものがあったのかと感激し、それぞれの宝物をまた懐にしまい込んで、別れたという。
今の世の人なら、きっとばかげていると言うでしょうね。(袋草紙)
鉋屑と蛙の干物に感激する二人の話です。
長柄の橋は、伊勢(十九番)が次のように詠んでいます。
なにはなる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへむ(古今集・誹諧歌)
難波にある長柄の橋も新しく造っていると聞く。今となっては(古くなった)わが身を何にたとえればよいのやら
この歌より前に、長柄の橋は「世中にふりぬる物はつのくにの長柄の橋と我となりけり 」(古今集)と詠まれていて、古いものの代表でした。それが新しく造り替えられたので、わが身だけが古いままかと嘆いているのです。鉋屑はこの時にでたものでしょうか。
一方、井手にすむ蛙は「かはづなく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」(古今集)のように和歌に詠まれています。
能因と節信が、和歌に関係するレアアイテムを見せ合って、大喜びしている様子が想像できます。でも、やっぱりなにか変。節信の職である帯刀の長は、皇太子を護衛する武官の指揮官です。能因と肩をならべるほどの「すきもの」が、いたんですね。
2017年5月4日木曜日
立ち別れいなばの山の
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む 中納言行平
在原行平、在原業平(十七番)の兄弟は、平城天皇の孫、阿保親王の子です。皇族には姓はつきませんが、「在原」という姓をもらって臣下になりました。有名な例では、物語の中の設定ではありますが、桐壺帝の子の光源氏が、「源」姓をもらって臣下になったのと同じです。この兄弟、弟の業平くんは、伊勢物語の主人公のモデルとされ、モテ伝説が量産されています。江戸時代でも「今業平」(現代版業平)がイケメン・モテ男の代名詞となっていました。しかし、「今業平」はもはや死語かも。残念。この弟と比べると、兄の行平くんには、実直なイメージがあります。兄弟で比べられて、行平は得をしているかもしれないな。
さて、「立ち別れ」の歌が詠まれたのは855年、因幡国(いなばのくに:現在の鳥取県)の国司となって赴任した時のことです。行平は38歳でした。
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
京を出立してあなたと別れて因幡国に行ってしまっても、因幡の山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたなら、すぐに帰って来るよ
掛詞が2つ使われています。第四句の「松」と「待つ」は定番の掛詞ですが、もうひとつは第二句の「いなば」。これから赴任する土地に敬意を表して、その地名「因幡」と、「往なば」を掛けています。古語辞典はほとんどの見出し語に漢字をあてていますが、それは、古語に適切な漢字をあてることができさえすれば、現代語の意味と直接つながるからです。「いなば」にあてた漢字の「往」は、たとえば箱根駅伝の往路・復路の「往」です。往路は東京から箱根に行き、復路は箱根から東京に帰って来ますね。平安時代は常に京が起点ですから、「立ち別れ」の歌の「往なば」は、京から因幡国に行くことです。そして、第五句「帰り来む」は、いわゆる復路で、因幡国から京に帰って来ることです。
行平の「立ち別れ」の歌は、後の時代の人々に愛され、謡曲「松風」のモチーフになっています。これは行平と松風・村雨という姉妹のお話です。
いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来ん
それは因幡の 遠山松
これは懐かし 君ここに すまの浦わの まつのゆきひら
立ち帰り来ば われもこかげに いざ立ち寄りて
そなれまつの なつかしや
いなばの山の峰に生えている松のように、あなたが待っていると聞いたら、すぐに帰って来ようよ
それはここからは遠い 因幡国の山の松
ここにあるのは、懐かしい行平の君が、ここ須磨にお住まいになっていた、須磨の浦に生えている松、
行平の君が帰って来られたら わたしも松の木陰に さあ立ち寄って
慣れ親しんだ行平の君 ああ、なつかしいこと
須磨(現在の神戸市)で暮らしていた行平は、松風と村雨という姉妹と愛し合いますが、「立ち別れ」の歌を詠んで都に帰り、再び戻っては来ませんでした。行平を恋しく思う松風は、村雨が止めるのも聞かずに、松を行平と見て近づき、行平の形見の装束を身につけて舞います。
行平が須磨で暮らしたことがあるのは、事実のようです。
文徳天皇の御代に、ある事件に巻き込ま
れたため、摂津国の須磨というところに
引き籠もっていた時に、宮中にいる人に
おくりました
わくらばにとふ人あらばすまの浦にもしほたれつつわぶとこたへよ (古今集)
もし、なにかのついでに私のゆくえを尋ねる人がいれば、須磨の浦で袖が潮水にぬれるように、袖を涙でぬらして、つらい暮らしをしていると答えておくれ。
なるほど涙は目から出る潮水ですね。この歌は、源氏物語「須磨」巻の構想に使われて、有名になりました。
「立ち別れ」の歌の説明で、京から因幡国に行き、因幡国から京に帰る、としつこく述べましたが、謡曲「松風」では、往路復路が逆になっていて、須磨から京都へ行き、京都から須磨に帰って来ることになります。因幡国はただ「往なば」という言葉のつながりにのみ使われています。
…と説明すると、じゃあ謡曲「高砂」は間違いですねと考える人がいるかもしれませんが、それは私の本意ではありません。行平を待ち続ける、松風・村雨姉妹の悲嘆は心にひびきます。思うに文学は、事実か、事実ではないか、また、正しいか、正しくないか、を超越した存在です。先行する文学作品を内部に取り込み、そこから新しい文学作品を生み出していく。平安時代も鎌倉時代も室町時代も江戸時代も、古典は人々の心の内に取り込まれて、豊かなものを新たに生み出してきました。それに対して現代は、古典がどんどんやせ細っているように感じます。もっと自由に、古典を楽しんでほしいな。
2017年4月27日木曜日
末の松山
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 藤原元輔
いつも約束してたよね。君もわたしも涙で濡れた袖をしぼりながら、末の松山を波が越えるようなことはしないよと。
この歌が詠んでいるのは、どんな状況でしょう。「末の松山を波が越えるようなこと」とは、一体なんでしょう。それを明らかにするキーワードが「末の松山」です。和歌世界の連想ゲームのようなものです。
わが国最初の勅撰和歌集である古今集には、東歌(あづまうた)というくくりで、京都より東にある国々で古くから歌われていた歌で、かつ都の貴族たちが好んで口にしていた歌が、十三首ほど採られています。その中に次のような一首があります。
君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山波もこえなむ(古今集・みちのくうた)
あなたがいるのに、あなたを捨ててほかの誰かを好きになることが、もしもあるなら、末の松山をきっと波が越えるでしょう。
あの高台に生えている「末の松山」を波が越えることが絶対にないように、わたしがあなた以外の人を好きになることなど絶対にないよと、きっぱりと言い切っています。 たとえを現代風に言い換えると、東京タワーが全部水に漬かることが絶対にないように、あなた以外の人を好きになることなど絶対にないよ、という感じでしょうか。
和歌世界の恋歌部門でいう「末の松山を波が越えるようなこと」とは、恋愛関係にあった人が心変わりすることなのです。
そして、百人一首の元輔の歌、
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは
残念なことに、相手は心変わりしちゃったようですね。いつまでも一緒だよと、感極まって涙を流しながら約束したというのに。「しぼりつつ」の「つつ」は反復を意味する助詞です。泣いて、泣いて、「絶対、心変わりしません」「絶対、心変わりしません」と何度も繰り返していたのに。あぁ。
さて、筆者が大学院生のころ、仙台で和歌文学会の全国大会があり、その関連行事で、みちのくの歌枕をめぐるツアーに参加しました。「末の松山」にも行きましたが、まわりは住宅地で、説明板がなければわからないようなところに、何代目かの「末の松」が生えていました。それから長い月日が経ち、松も生長し周囲も整備されました。2011年3月東日本大震災で東北に大変な被害が出ましたが、地震からしばらくたったころ、新聞などに「末の松山」の記事がいくつか出ました。東日本大震災の時も、近所の人たちは言い伝えを信じて「末の松山」に避難し、津波は「末の松山」には到達しなかったということです。
人の心は変わるけれども、自然は変わらない、文学の永遠のテーマです。
2017年4月26日水曜日
来ぬ人をまつほの浦の
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百人一首を編纂した藤原定家は、八十歳まで生きました。当時としては大変な長生きです。二十代前半に平家が壇の浦で滅亡。六十代のころ承久の乱がおこり、後鳥羽院(九十九番)が隠岐の島、順徳院(百番)が佐渡島に流されています。定家の日記、明月記にはこれらの乱にふれた有名なことばがあります。
世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事二非ズ
いま世間では、戦乱のうわさでもちきりだが、それについてはここには書かない。朝廷の旗の下におこなわれる戦いは、私の関知するところではない。
でも、和歌に関しては、たとえ相手が後鳥羽院であっても、自説を主張して譲らない、そんな人だったようです。
また、定家は父の俊成(八十三番)とともに、古今集を初めとする勅撰集、代々の歌人の家集(個人の歌集)、源氏物語、土佐日記などの書写を、家の者たちを監督して、精力的にすすめました。このころに書写された作品の多くは、俊成・定家の子孫の冷泉家の文庫に今も残っていて、不定期ですが、展覧会などに出品されて、実物を見ることができます。高校の古典の時間に、「定家さんたちが書写してくれたおかげで、現在まで残った、古文の作品がたくさんあるのよ」と、だから感謝しなくちゃという気持ちで話すのですが、多くの生徒が、ちえっ、いらんことをしてくれた、という表情になるのが、ウウウ…とても悲しいの。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
きっと来ないと思いながら、それでもあなたを待つ、まつほの浦で、夕方の風が止まるころに海藻を焼くのですが、私自身も、じりじりと焦げていく海藻のように、あなたの訪れを待ち焦がれてしまうのです
この歌は建保四年〔1216年〕に催された内裏百番歌合に出詠されました。そのころの歌人にとって、「まつほの浦」は聞きなれない地名だったようです。それもそのはずで、定家は、万葉集の長歌への返歌(返事の歌)として、「来ぬ人を」の歌を詠んだのです。当時、万葉集の特に長歌は、今ほど簡単に読むことができませんでした。
(神亀)三年〔726年〕丙寅秋九月十五日、播磨国印南野に行幸した時、笠金村が作った歌一首
なきすみの ふなせゆみゆる あはぢしま まつほのうらに
あさなぎに たまもかりつつ ゆふなぎに もしほやきつつ
あまをとめ ありとはきけど みにゆかむ よしのなければ
ますらをの こころはなしに たわやめの おもひたわみて
たもとほり あれはぞこふる ふなかぢをなみ (万葉集)
名寸隅の 船泊から見える 淡路島の 松帆の浦に
朝凪には いつも玉藻を刈り 夕凪には いつも藻塩を焼く
海人乙女が いると聞いているのだけれど 逢いに行く 手段がないので
強く勇ましい 心はなくて なよなよと 心がくじけて
行ったり来たりして 私は恋しく思うのだ 舟も楫も無いので
名寸隅(なきすみ)は現在の兵庫県明石市の地名で、松帆の浦はその対岸の淡路島北端の地名です。逢いに行きたいけど行けない、だって舟がないんだもの、となんとも煮え切らない男の歌ですが、定家は、万葉集の長歌に詠まれている、松帆の浦の海人乙女のかわりに、500年の時空をこえて、それでもあなたを恋い焦がれて待っていますと、返歌を送ったのです。タイムマシンがなくても、過去と交信できるのですね。素敵。
2017年4月22日土曜日
小野小町の恋の歌
小野小町が、年をとって容貌も衰え、最期は陸奥国の野で髑髏になったという説話を紹介しましたが(小町髑髏説話、拒絶する小野小町)、「だめ、そんなの小町じゃない」という小町フアンのために、小野小町の素敵な和歌を紹介したいと思います。
公認小町フアン第一号は、紀貫之(三十五番)かもしれませんね。貫之は、わが国最初の勅撰和歌集である、古今集の仮名序にこのように記しています。
小野小町の歌は、いにしえの衣通姫(そとおりひめ)の流れをくんでいます。思いがあふれていますが、強く主張するわけではありません。いうなれば、美しく高貴な女性が、思い悩む心の内を言葉にしているようなものです。強さがないのは女の歌だからでしょう。(古今集仮名序)
衣通姫は古代の美女の代名詞で、美しさが衣を通って輝いていたといわれています。
勅撰集の恋の部は、おおむね恋の進行にしたがって和歌を配列しています。恋の初めのときめきを歌った歌から、なんとかして思いを伝えたいと願う歌、次の段階の、思いがかなってうれしいという歌はほとんどなくて、逢えなくなったことを嘆いている歌がバターン1,2、3…と続き、終わってしまった恋の歌という順序です。古今集の恋の部は、恋一から恋五までの五巻ですが、恋二の巻頭に小野小町の歌が三首ならんでいます。
思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
あの人のことを考えながら寝たので、あの人が夢にでてきたのかしら。夢とわかっていれば目を覚まさなかったのになあ
うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
うたた寝をしていて恋しいあの人を見てからというもの、夢というものに期待してしまいます
いとせめてこひしき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる
とてもたえられないほど恋しい時は、夢で逢うためのおまじない、夜の衣を裏返して着るのです
全く関係のない話ですが、私がつわりで何も食べられなかったとき、夢にグレープフルーツが出てきたんです。喜んで食べようとしたところで起こされてしまい、なんで起こすのよと、目が覚めた時に本気で文句を言ったことを思い出しました。一番目の歌(思いつつ)もそんな感じかな。え、同意しかねる?
気を取り直しまして、古典和歌には「夢の通い路」という美しい言葉があります。ふたりの心が通い合っていれば、相手が夢に現れると信じられていたので、二番目の歌(うたた寝に)は、彼も私のことを思ってくれているのかしら、期待していいのかしらと、どきどきしています。貫之が仮名序に書いているように、積極的にアプローチする歌ではありませんが、こんなラブレターがとどいたら、夢とはいわず、すぐに直接逢いに行ってしまうのではないかな。
古今集からもう一首、
文屋康秀(ぶんやのやすひで)が、三河の掾(ぞう)
になって、「私の任国を見にいきませんか」といって
きた返事に詠んだ
わびぬれば身をうき草のねをたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ(雑下)
わびしくて、わが身を憂きものと感じていますので、憂き草ならぬ浮草のように根無し草となって、誘う水があれば、どこにでも流れて行こうと思います
三河国の国司になった文屋康秀(二十二番)が、どうですあなたも一緒にいきませんかと軽く誘いをかけてきたので、そうね、行ってもいいかなと軽く返した歌です。小町が詠んだ歌が過剰に〈深刻ぶっている〉ので、これは冗談で、軽い会話を楽しんでいるんだなとわかります。ここで小町のお返事を真に受けてしまうと、百夜通いすることになるかも。文学畑の方たちは、めんどうくさいところが多々ございますね。
2017年4月19日水曜日
もろともにあはれと思へ
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし 前大僧正行尊
行尊は三条院(六十八番)のひ孫で、十二歳のときに出家して園城寺に入りました。そして熊野・大峯・高野などの山中で厳しい修行をします。五十歳を超えて、鳥羽天皇の護持僧となり、あちこちの寺の長官を兼務し、天治元年(1125)、七十歳の時に、僧の最高位である、大僧正に任ぜられました。御産の時や病気になった時は、修行をつんだありがたい僧の加持祈祷が頼りでしたから、都の貴族たちの信頼も厚かったようです。
このように書くと、行尊はすごく偉い人で近寄りがたい存在に感じてしまいますが、本当のところはどうだったのでしょう。
大僧正に任ぜられた天治元年ごろ、五番目の勅撰和歌集である金葉集(きんようしゅう)に入れる和歌が集められていました。撰者は源俊頼(七十四番)です。勅撰集を撰集するときには、歌人たちに声をかけて、それぞれの家にある歌集を集めます。ここは私の想像ですが、行尊も、「若い頃に山で修行をしていたときに詠んだ歌をまとめたものがあるんですが、つかえそうな歌はありますかな」などと言って、修行時代の和歌を撰者に見せたのではないでしょうか。金葉集には十首の歌が採られました。時代は下がりますが、あの鴨長明が、勅撰集に自分の歌が一首入った、めちゃくちゃうれしいと書いているぐらいですから、二桁入るのはとてもすごいことです。金葉集の後にできた勅撰集にも、行尊の歌はたくさん入っています。
大峯の神仙というところに、長いあいだおりました
ところ、一緒に修行していた人たちが、それぞれに
事情があって、みんな去ってしまいましたので、
心細くて詠みました
見し人はひとりわが身にそはねどもおくれぬ物はなみだなりけり(金葉集・雑上)
知り合いは誰一人として、私と一緒にいてはくれないけれど、遅れることなく私についてくるのは、わたしの涙だったよ
十二歳で寺に入って、ほどなく大峯の霊場で修行をはじめたので、まだ二十歳前ではないでしょうか。不安な気持ちが、痛いほど伝わってきます。
また、大峯の霊場に入る直前に、自分をかわいがって育ててくれた乳母に送った和歌も、新古今集に入っています。
熊野へまいりまして、大峯に入ることにした時に、
長い間わたしを育ててくれた乳母のもとに
送りました
あはれとてはぐくみたてしいにしへは世をそむけとも思はざりけむ(新古今・雑下)
かわいい、かわいいといって育ててくれていた昔は、わたしがこのように出家して遠くに行ってしまうとは、あなたは思っていなかったよね。
乳母を気づかう優しさが、なんともせつないではありませんか。私はすっかり若いころの行尊くんのフアンになってしまいました。「あはれ」という言葉は、現代語では「かわいそうに」「みじめだなあ」などとマイナスの意味に使うケースがほとんどですが、古典では、ドキドキすること、胸にジーンとくること、胸がぎゅっと締め付けられるようなこと、とにかく、好ましいことでも好ましくないことでも、心が大きく動かされるときに使います。この言葉は、どのようなことに心が動いたのかを、きちんと読みとることができれば、場面がうまく理解できます。
さて、ここで行尊の百人一首の歌です。行尊の家集(個人の歌集)を見ると、この和歌がどのような状況で詠まれたのかが、よくわかります。
おもひがけない山中に、まだつぼみの花もまじって
咲いていましたが、風で散っていたので
山桜いつをさかりとなくしてもあらしに身をもまかせつるかな
山桜は、これから咲きそうなつぼみもまじっているのに、強い風に身をまかせているのだな
風に吹かれて枝が折れて、それでも美しく咲いて
いましたので
いましたので
折りふせてのちさへにほふ山桜 あはれしれらん人に見せばや
風で枝が折れて、地面についてしまっても美しく咲いている山桜、すごいなぁ、私と同じように感動してくれる人に、この光景を見せたいなあ
もろともにあはれと思へ 山ざくら 花よりほかにしる人もなし(行尊大僧正集)
最初の歌(山桜)、行尊は山の中で思いがけず山桜を見つけました。まだ満開にはほど遠い、5分咲きぐらいでしょうか、まだつぼみのままの花もあるのに、強い風が吹いて散っていました。つぼみの花はまだ若い自分、強風は厳しい修行、目の前の桜がまるで自分自身であるかのように感じたのかもしれません。そこで二番目の歌(折りふせて)、桜は強風で枝が折れても、美しく咲いています。「あはれしれらん人」とは、感動を共有できる人です。おそらく行尊の脳裏には、特定の誰かの顔がうかんでいるはずですが、今ここにいるのは自分ひとり。そこで、山桜に呼びかけます。
もろともにあはれと思へ 山ざくら花よりほかにしる人もなし
お互いにお互いのことを、すごいなぁ、感心だなぁと思おうよ。山桜よ。私のことをわかってくれるのは花のおまえしかしないのだから。
2017年4月17日月曜日
拒絶する小野小町
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| 楽天市場 みにちゅあーとショップで販売中 ペーパークラフトキット |
ふたたび小野小町の話題です。
小野小町を主人公にした能はいくつかありますが、その中のひとつ「通小町」では、小野小町とともに深草の少将が登場し、百夜通い(ももよがよい)の様子を再現します。
![]() |
the 能 com
http://www.the-noh.com/jp/plays/photostory/ps_023.html |
美女に求愛を拒絶されたことのある人たちが、次に紹介するような既成の話をすり替えて、美女代表の小野小町の説話にしちゃったのではないかな。いやぁね。
一条天皇の御時、天皇の御前で殿上人たちが「歌論義」をしていました。藤原公任(五十五番)が書きとどめた記録の断片が、後の時代の歌学書に伝わっています。「歌論義」とは、和歌の未解決問題をとりあげ、人々がそれぞれの家に伝わる説を披露しあうものです。一条天皇の御時だけでなくその後の時代になっても、また宮中だけではなく個人の邸などにも集まって、熱心に意見交換をしていたようです。文学の分野では、正解はひとつではありません。だから論議の場にこまめに参加したり、昔の記録を広く集めるなどして、たくさんの説を知っている人が尊敬されます。他の人の説を上から目線でばっさりと切り捨ててばかりいると、敬遠されます。それは今も同じですね。
平安時代後期の歌人、藤原清輔(八十四番)は、歌学界の蘊蓄(うんちく)王です。袋草紙(ふくろぞうし)、和歌初学抄、奥義抄(おうぎしょう)など、たくさんの歌学書をのこしていますが、奥義抄に、このような問答が記されています。
暁のしぢのはしがきももよかき君が来ぬ夜はわれぞかずかく
問云、この「しぢのはしがき」とは、どのようなことですか。
答云、例の歌論義にはこのようにあります。
むかし、なかなかなびいてくれない女に求婚する男がいた。真剣に交際したいと思いを伝えたところ、女は試してみようと思って、男がいつも通ってきては語りかけてくる場所に「しぢ」(牛車をとめるときに使う台)を置いて、「もし、この上で百夜続けて寝たら、あなたの求婚を受けいれることにするわ」と言った。男は雨の降る時も風の吹く時も、日が暮れるとやってきては「しぢ」の上で寝ていた。「しぢ」の端に寝た夜の数をかいていき、見ると九十九夜になった。そこで、「明日からは、何があっても拒絶できませんからね」などと言って帰った。ところが男の親が突然死んでしまったので、その夜は行くことができなくなってしまった。そのときに、女からおくられてきた歌である。
これはある秘蔵の書物の中にある話だということですが、実際に見たことはありません。(奥義抄)
この「歌論義」のきっかけは、ある人が持っていた古今集の本文が、みんながよく知っていた本文とは違っていたことです。当時みんながよく知っていた本文は、現在もそのまま使われています
暁のしぎのはねがきももはがき君がこぬ夜は我ぞかずかく(恋五・七六一)
明け方になると聞こえてくる、飛び立つ鴫の羽がきの音、百羽の鴫の羽がきの音。あなたが来てくださらなかった夜は、鴫の羽〈がき〉ではないけれど、あなたが来ない夜の数を私が〈かき〉ます。
この女性は、バサバサと飛び立つ鴫の羽音を聞きながら、今日もこない、昨日もこなかったと手帳にメモしていたのですね。とにかく、「しぎのはねがき」が「しぢのはしがき」となっている本があって、それが1本や2本ではなかったのです。そこで、これはどういうことやと意見交換が行われました。
昔はコピー機などはないので、書物はすべて手で写していました。とうぜん書き間違えることがあります※。でも、書き間違いですませないで、いろいろなお話を新しく創作してしまうのが、古文の世界のおもしろさ。それが、いつのまにか有名人の小町の説話に変わっているというのも、古文の世界のおもしろさです。理屈じゃないんです。
※書写する人が、こっちのほうがいいんじゃないと本文を書き替えたり、付け足したりすることもありますが、ややこしくなるので、それはまた別の機会に。
2017年4月15日土曜日
いにしへの 奈良の都の八重桜
いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな 伊勢大輔
いにしへの奈良の都は平城京、八重桜は通常の桜よりも花びらの数が多い桜のことです。伊勢大輔集によると、奈良から献上されためずらしい桜を受け取る役目を、大先輩の紫式部から急に任されて詠みました。
上東門院が中宮だったころ、内裏で帝のおそば近くにいらっしゃたときに、奈良にいる僧都から八重桜が献上された。「今年、受け取る人は、最近出仕してきた方にしましょう」といって、紫式部が役目をゆずったところ、入道殿(道長)がそれをお聞きになって、「なにもせずに受け取るわけにはいかないね」とおっしゃったので
いにしへの 奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな (伊勢大輔集)
お届け物でーす。こちらにサインをお願いします、ではすまないところが、さすがに平安時代ですね。
伊勢大輔は、重代(じゅうだい)といわれる、代々つづく和歌の家、大中臣家の出身です。勅撰和歌集に入集する優れた歌人を輩出していました。たとえると、鳴り物入りで迎えた期待の大型新人の初登板で、しかも天覧試合。でも、伊勢大輔は本番に強かった。見事な変化球を美しいフォームで投げました。
どこが変化球かといいますと、この歌にいろいろな趣向が隠されているところです。
まず、「八」重桜が「九」重に咲いているよと、数字で遊んでいるところ。「九重」とは宮中のことです。さらに、「けふ」が「今日」と「京」の掛詞になっていて、「いにしへ」と「今日」、「奈良」と「京」がそれぞれ対比されています。
下手な歌人が凝った歌をつくると、下手なダジャレのようで、心地よく心に入ってこないのですが、伊勢大輔の歌には技巧を感じさせない美しさがあります。加えて、和歌を考えて発表するまでのスピード。藤原清輔(八十四番)が著した、袋草紙という歌学書には、この歌を披露したとき、その場にいたすべての人が感動し、感動で宮中が揺れた(「万人感嘆し、宮中鼓動す」)とあります。デビュー戦は大成功でした。
言わずもがなのことですが、伊勢大輔は〈イセ・ダイスケ〉ではありません。これではアラキ・ダイスケ、タカハシ・ダイスケ、イセ・ダイスケ。なにやらスポーツマンっぽい名前になってしまいます。たとえが野球になってしまったのはそのせい?
平安時代の女性は、邸の中だけで生活するのであれば、大君・中の君・三の君・四の君と年齢順に呼べば、それで事足ります。でも、宮中でお勤めするとなれば、大君・中の君だらけで、誰がだれやらとなってしまいます。そこで女房名を決めるのですが、父親や夫の赴任地をそのまま女房名にするケース、たとえば、夫が相模守だったので相模(六十五番)、夫が紀伊守なので紀伊(七十二番)、父親や夫の官職名をつかうケース、たとえば、父の清原元輔(四十二番)が少納言だったので清少納言(六十二番)、などがあります。清原さんちの少納言さんの娘という意味ですね。伊勢大輔も、父親の輔親か夫の高階成順が大輔の位に就いていたことがあったのでしょう。大輔は省の次官(すけ)の位で、治部大輔・民部大輔・兵部大輔・刑部大輔・宮内大輔などがありますが、その中のどれなのかはわかっていません。大中臣家は伊勢神宮の祭主を代々つとめていました。
伊勢大輔は、いせのたいふと読みます。
(追記)羽生結弦くんの、引退した浅田真央さんへのコメント「難しいステップ、スピン、ジャンプを入れたとしても、そこに難しさを感じさせないのが浅田さんのすばらしいところ(毎日新聞2017/04/17スポーツ面)」は、すぐれた和歌にも通じます。技巧をこらしつつ、全体は流れるように。タカハシ・ダイスケからの連想でした。
2017年4月13日木曜日
小町髑髏説話
| 岡山県総社市にある備中国分寺の山桜 2017/04/8 |
花の色はうつりにけりな いたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町
百人一首九番の歌です。教科書にも入っていて、とても有名です。小野小町は、すてきな和歌をほかにもたくさん詠んでいるので、小町の和歌のお話は、また別の機会にしようと思いますが、ひとつだけ。第二句「うつりにけりな」の「うつる」、それから「うつろふ」という言葉には注意が必要です。もちろん言葉ですから少しは例外もありますが、ほとんどの場合、「うつる」「うつろふ」は、好ましい状態から好ましくない状態に向かって変化します。たとえば、人の心が「うつろふ」、これはラブラブな状態から愛情が冷めた状態に変化することです。この言葉、ちっともうれしくないわ。
小野小町さんは、「春の長雨のせいで、あんなに美しかった桜の花が色あせてしまったわ。あらいけない、私の美貌も劣化したみたい」などと、自分を軽く卑下する歌を詠まなければよかったのです。この歌が有名になったせいで、小野小町の老後は美貌が見る影もなくなり、生活が困窮したという説話がいくつも生まれてしまいました。和歌そのものは、技巧を技巧と感じさせない見事な詠みっぷりで、とてもすばらしいものです。でも、今も昔も、マイナス面ばかりを強調しすぎる傾向がありますね。
今回取り上げるのは、小町髑髏説話です。
突然ですが、鴨長明には文学史に残る著書が3つあります。一つめは方丈記、地震ルポ、平家の福原落ルポはさすがの迫力です。二つめは発心集、人々が仏道に入るきっかけとなったお話を主に集めた説話集です。そして三つめが無名抄、名前がなくてはややこしいので長明無名抄と呼ばれることもある歌学書です。有名な歌人のエピソードや、和歌に人生を捧げすぎておかしなことになっている歌人のエピソードが、じわじわとおもしろい本です。
無名抄にある、小野小町のエピソードを紹介しましょう。
伊勢物語六段「芥川」は、在原業平とおぼしき男が、帝のお后にするために大切に育てられていた女性を奪って、二人で逃避行するとても美しいお話ですが、つけたしの後日談は、夢見る乙女としては(え、誰が?)、美しいお話が台無しじゃないかっと全力で怒りたくなる、ほんとうに余計なつけたしです。このラブロマンスは在原業平の回で、くわしく紹介しようと思っていますが、無名抄では、伊勢物語よりもさらに台無しな後日談から、小野小町の話題につないでいます。
~業平は、将来のお后候補を盗んだかどで、彼女の兄二人からお仕置きとして髻(もとどり)を切られてしまいました。髻とは頭の上で髪を束ねた〈ちょんまげ〉の部分ですが、髻を切られてしまっては、宮中に出仕することもできません。~
業平朝臣は「髪を生やそう」と思って、邸に引き籠もっていたが、この際だ、「あちらこちらの歌枕を見に行こう」と、和歌の勉強を口実にして、東国の方にでかけた。陸奥国にたどり着いて、かそしまというところに宿をとった夜のこと、野原の中で和歌の上の句を詠んでいる声がする。それは、
秋風の吹くにつけてもあなめあなめ
と聞こえた。不思議に思って、声をたどりながら、探したところ、人はだれもいない。ただ、死人の頭がひとつあった。翌朝、もういちど見にいくと、その髑髏(どくろ)の目の穴から薄が一本生えていた。その薄が風になびいている音が、例の歌を詠んでいるように聞こえた。不思議に思って、このあたりに住んでいる人にそれを尋ねた。ある人が語るには、「小野小町が、京からこの国に下ってきて、この場所で命を終えたんですよ。で、その頭がこれです」。
業平は、小町が哀れで悲しく思ったので、涙を拭いながら下の句をつけた。

小野とはいはじ薄生ひけり
その野の名が玉造だと土地の男は言ったということです。
玉造小町と小野小町は同一人物か、別人かと、人々が不審に思って言い争っていたときに、その場にいた人が語った話です。(無名抄)
「玉造小町」とは、『玉造小町子壮衰書』という本に登場する人物です。『玉造小町子壮衰書』は平安時代の後期には書かれていただろうと言われています。本の中で、老いさらばえた老女が、若い頃は美貌を誇って贅沢に暮らしていたが、親兄弟も死んでしまって、今では惨めな暮らしをしていると語ります。
まさか、あの小野小町が、そんな惨めな老後をむかえる訳がない、玉造小町と小野小町は別人だよと考える人もいます。その一方で、いやいやこれはきっと小野小町のことにちがいないと考える人もいたようです。
無名抄を読むと、当時の、つまり平安時代の終わりから鎌倉時代の初めごろの人たちが、けっこう真剣に、小野小町について語り合っていたことがわかります。長明は、小野小町の老後は悲惨だった説に一票入れたいのかな。どう思われますか。
小野小町の話は、まだまだあります。
2017/04/13
ひさかたの光のどけき春の日に
これは角川ソフィア文庫の中の1冊、「カラー版百人一首」の表紙です。和歌1首が1ページにまとめられ、現代語訳、ミニ知識とともに、光琳かるたの読み札と取り札が大きく印刷されています。定価は480円+税。お値段もお手頃。パラパラめくるには紙の本のほうが便利ですが、電子書籍にもなっていて、かるたの色は電子書籍のほうがきれいです。
光琳かるたは読み札に作者の絵、取り札に和歌の内容につながる絵が描かれていて、絵をながめているだけでも楽しめます。
このブログでは、百人一首の100首の歌を入口にして、和歌のこと、作者たちのこと、平安時代のあれこれを、書いていこうと思います。
「学生時代の古文の呪いを、わらわが解いてしんぜよう」などと大口をたたくことはできませんが、ちょっとおもしろいじゃないかと思っていただければ幸いなり。
読み札に描かれた作者の表情はじつに個性豊かですが、なかなかいい味を出しているのが、三十三番の紀友則です。今風にいうと癒やし系?和歌はもっと癒やし系です。
ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則
光琳かるたの取り札には、お日さまを意味する赤い丸と桜の木が描かれています。日ざしが明るく、ふんわりと暖かい春の日、友則さんは桜の木の下でウトウトしている。そんなのんびりとした春の日なのに、気がつくとせっかく咲いた桜の花が散っています。「しづ心」は静かな心。「しづ心なく」ですから、〈静〉の反対の情景を想像してみてください。桜はどのように散ってるのでしょうか。〈静〉の反対は〈動〉です。
友則の歌の解釈の決め手は文末の「らむ」です。現在推量の助動詞といわれていますが、もうすこしくわしく説明すると、現在おこなわれていること・現在おこっていることについて、目に見えないことを想像する助動詞です。たとえば、目の前で泣いている人をみながら、「この人はなぜ泣いているのだろう」、「お腹がすきすぎて泣いているのだろうか」と、目には見えない心の中を想像する用法、「あわててでかけた彼は、いまごろ駅に着いただろうか」と目には見えない離れた場所で現在おこなわれていることを想像する用法などがあります。友則の歌は、目の前でどんどん散っていく桜の花を見ながら、どうしてこんなにのどかな日に散るのだろうかと、桜の心の中を想像しています。
光琳かるたの読み札に描かれた友則さんは、
「こんなに気持ちのいい春なんだからさ~、そんなにあわてて散らなくてもいいんじゃない~、もっとのんびりしょうよ~」
と桜に呼びかけているように思えます。
2017/04/12
光琳かるたは読み札に作者の絵、取り札に和歌の内容につながる絵が描かれていて、絵をながめているだけでも楽しめます。
このブログでは、百人一首の100首の歌を入口にして、和歌のこと、作者たちのこと、平安時代のあれこれを、書いていこうと思います。
「学生時代の古文の呪いを、わらわが解いてしんぜよう」などと大口をたたくことはできませんが、ちょっとおもしろいじゃないかと思っていただければ幸いなり。
読み札に描かれた作者の表情はじつに個性豊かですが、なかなかいい味を出しているのが、三十三番の紀友則です。今風にいうと癒やし系?和歌はもっと癒やし系です。
ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則
光琳かるたの取り札には、お日さまを意味する赤い丸と桜の木が描かれています。日ざしが明るく、ふんわりと暖かい春の日、友則さんは桜の木の下でウトウトしている。そんなのんびりとした春の日なのに、気がつくとせっかく咲いた桜の花が散っています。「しづ心」は静かな心。「しづ心なく」ですから、〈静〉の反対の情景を想像してみてください。桜はどのように散ってるのでしょうか。〈静〉の反対は〈動〉です。
友則の歌の解釈の決め手は文末の「らむ」です。現在推量の助動詞といわれていますが、もうすこしくわしく説明すると、現在おこなわれていること・現在おこっていることについて、目に見えないことを想像する助動詞です。たとえば、目の前で泣いている人をみながら、「この人はなぜ泣いているのだろう」、「お腹がすきすぎて泣いているのだろうか」と、目には見えない心の中を想像する用法、「あわててでかけた彼は、いまごろ駅に着いただろうか」と目には見えない離れた場所で現在おこなわれていることを想像する用法などがあります。友則の歌は、目の前でどんどん散っていく桜の花を見ながら、どうしてこんなにのどかな日に散るのだろうかと、桜の心の中を想像しています。
光琳かるたの読み札に描かれた友則さんは、
「こんなに気持ちのいい春なんだからさ~、そんなにあわてて散らなくてもいいんじゃない~、もっとのんびりしょうよ~」
と桜に呼びかけているように思えます。
2017/04/12
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